(1) なぜ「メール」か情報漏えいの防止を考えた場合、まず注目するべきは電子メールである。現在、インターネットを利用した業務上の連絡ツールとしては、メールの他、SlackやChatworkなどのサービスを利用することが多い。これらのサービスは、あらかじめ絞ったメンバーとチャットやファイルの送受信をするサービスであり、部外者に誤送信をするということは少ない。社内やそれに準じる組織あるいは継続的に取引がある相手方であれば、Slackなどのツールで連絡を取り合うこともあろう。そうすれば、基本的に情報漏えいの可能性はかなり下げることができる。しかし、1〜2回しか取引をしない相手方、あるいは、BtoC企業において個人の消費者に「これから〇〇というアプリにインストールして、会員登録をしてください」というのは、なかなか難しい。したがって、外部への連絡、つまり誤送信すると情報漏えいにつながりかねない連絡についてはメールにより行う、ということが通常となる。メールであれば、今や誰でも持っており、相手が事業者であれば、各従業員に電子メールアドレスが割り振られているのが通常である。消費者であっても、同様に電子メールアドレスを持っている。Slack等が普及した今日においても、電子メールはいまだに現役で、誰でも使っている、使える連絡システムとして、企業が用いる連絡手段としてはまだまだ主流である。そのため、メールはまだまだ連絡に用いることが多い。一方で、情報漏えいのための特段の対策がなされていない(上記のサービスのように招待制であるなどの仕組みがない)ため、その観点からは、最も対策を要するべき分野である。筆者の経験上、弁護士業務においても、電子メールは活用されており、弁護士と依頼者とのやりとりだけではなく、弁護士同士の情報交換にも活用されている。その中で、定期的に、依頼者とのやりとりをメールソフト等に誤送信するという事故が起きている。それを見て、もし自分が同じ事故を起こしたらどうなるのかと、肝を冷やすことは多々ある。(2) アドレスはすべて登録するメールの安全な使い方の一丁目一番地は、送信先アドレスは全部登録しておく、ということである。もちろん、1回限りのやりとりについては、すべて登録するのはあまりに手間である。このことは、上記(2)の簡単に実行できるものであるべきというルール設定の原則にも反する。そこで、せめて継続的にやりとりする連絡先や重要な連絡先だけでも、アドレス帳に登録することを義務づけるべきである。ほとんどのメールソフト(メールの受信や閲覧を行うソフトウェア)には、アドレス帳の機能がついている。そして、メールアドレスを入力するときには、アドレス帳に登録されているアドレスを照合して、候補として表示してくれる。これで、打ち間違いを防ぐことも可能である。たとえば、「yamada.taro@atlaw.jp」に対してメールを送信する場合、「yama」あたりまで入力した時点で、候補として表示され、それを選択することで、「yamadataro@atlaw.jp」まで一気に入力できる、というような仕組みである。具体的なルールとしては、「継続的にやりとりをする相手の電子メールアドレスは、すべてアドレス帳に登録をしなければならない。送信」ではなくて新規作成して電子メールを送信するときは、アドレス帳に登録されていない電子メールアドレスに送信をしてはいけない」という定めが考えられる。なお、「返信」については、本節(4)で詳しく解説する。(3)「手打ち」メールアドレスに秘密情報送信は厳禁名刺に記載されたメールアドレスや、申込用紙等に記載されているメールアドレスにメールを送信する場合、当然であるが、そのアドレスを入力して送信をする、ということになる。このような場合、いきなりそのアドレスに秘密の情報を含む内容のメールを送信してはならない。メールアドレスの打ち込みは、打ち間違いをするものである。メールアドレスに限らず、自分が書いた文章の誤字脱字は、自分自身では気づくことは難しく、筆者も経験している。たとえば裁判所に提出する書面については、誤字脱字を入念にチェックした上で提出している弁護士に見てもらっても「誤字があった」とわかることがしばしばある。書籍の執筆も同様で、校閲段階で「誰が書いたんだ?」と思いたくなるほど未熟な文章があることに気づくのも日常茶飯事である。特にメールアドレスは、同じアドレスを取得できない、同姓同名の衝突などの問題から、記号や数字が入っていることが珍しくない。「i(アイ)」とか「1(イチ)」や「l(エル)」を混同した経験のある方も少なくないだろう。したがって、登録していない、あるいは「送信」機能以外で、つまり電子メールアドレスを手入力することがある場合、絶対に秘密情報を送ってはいけない。テスト送信を実施するべきである。特に、個人の顧客相手にはその人の秘密情報である場合には、事故が起こりやすい。たとえば、顧客が会社のメールであれば、その専用のドメインのメールアドレス(例にyamada.taro@chuokeizai.co.jp)があることが多く、この場合は、アドレスを多少間違えても、エラーメッセージが送信され、情報漏えいにつながらないことが多いが期待できる。一方、個人の顧客の場合、自分のドメインを取得している場合が珍しく、GmailやiCloudなどのメールサービスのデフォルトのドメインを利用しているケースがほとんどである。このようなメールサービスでは、同じドメインを無数のユーザーで使うため、ユーザー名(@の左側の部分)が重複することが多い。そこで、数字などを加えることで、衝突を回避することがたびたびある。たとえば、「yamada.taro」などは、先に登録されているので、「yamada.taro12」とか「yamada.taro1990」などである。顧客が会社(組織)の場合、「yamadataro」さんはいても「yamadataro12」さんはいないので誤送信にならないが、個人の場合はそうではない。また、仮に似たアドレスが存在した場合、A社の山田太郎さんと間違えて、同じ会社の山田二郎さんに届いたという問題にとどまることがある。しかし、個人の場合は、同じドメインを無数の他人が利用している。会社の場合は、「yamada.taro」さんも「yamanaka.taro」さんも同じ会社にいるのであまり大きな問題になりにくいが、個人の利用するメールサービスであると、この両者は全くの他人になるため、大事故につながり得る。したがって、上記の重複を避けるために入れた数字を1つ間違える、打ち飛ばしてしまうなどで、たちまちの他人に秘密情報の入ったメールが届くことにつながりかねない。メールアドレスの手入力は、特に個人の顧客に対してメールを送信するときは、かなり危険な行為なのである。そのため、手入力したアドレスは必ずテスト送信を経てから秘密情報の送信に使うべきである。なお、テスト送信の具体的な方法であるが、筆者は次のような方法を用いている。まず、相手先の名前を一部(法人名や姓を除いた苗字)だけ入れて、テスト送信であるとの旨を記載してメール送信する。その後、送信メールが届いたら、その署名でフルネーム、法人名を確認するという方法をとっている。個人の場合、最近はLINEなどのメッセージアプリの普及で、メールを送信する習慣がない、署名を作成しない、ということもある。さほど多くはないが、署名がなかった場合は、改めてフルネームを尋ねるということになる。具体的なメールとしては、「手入力したメールアドレスについては、必ず、テスト送信をしてからメールを送信しなければいけない。テスト送信においては、相手先の苗字のみを入れて送信し、それへの返信でフルネームを確認する方法による」という定めが考えられる。コラム5 もうやめよう PPAPPPAPという言葉をご存じだろうか。あの有名な流行語のほうではない。セキュリティに関する用語である。実は筆者も最近知った言葉であるが、知らなくても、経験したことはいくらでもあると思う。これは、一般財団法人日本情報経済社会推進協会の太専司が提唱した言葉である。その意味は、P:パスワード付きのZIPファイルを送信します。P:パスワードを送信します。A:暗号化P:プロトコルの略である。なお、プロトコル(protocol)とは、本来は外交儀礼という意味であるが、コンピュータの世界では、通信のやりとりにおいて用いられる方式、作法をいう。読者も一度は経験したことがあると思うが、ZIPファイルの送信を受け、その後に、そのパスワードを別メールでもらう、というものである。情報漏えいの防止のための方法であるとのことであるが、そもそも、同じメールアドレス(宛先)に同じメールアドレスに(送信元)にパスワードが記載されているのである。誤送信であれば、同じところに誤送信を2回繰り返すだけであり、ほとんど意味がない。もっとも、ZIPファイルそのものはパスワードを付けて暗号化されている。したがって、このZIPファイルが何らかの原因で漏えいした場合、パスワードがないと閲覧ができないのだから、そのような意味(ZIPファイルだけ漏えいした場合)では、情報漏えい対策について一定の効果はあるかもしれない。ただ、「大事なものだから金庫に入れて送ります、鍵については、別便で同じ住所に送ります」というものに近い。送り先が間違っていた場合、その間違った送信先に最も届くので、暗号化したZIPファイルは、ウイルス対策ソフトが読み取ることができないので、ウイルスチェックをすり抜けてしまう、という問題もある。なにより、受信者にとっては手間である。セキュリティ対策に手間がかかるのはやむを得ないことであるが、上記のとおり、あまり意味がないことに手間をかけるのはもったいない。仮に、PPAPをセキュリティ対策として有効なものとするのであれば、別ルート、FAX、手紙、電話、SNSでパスワードを送るなどの工夫が必要であろう。それにかなりの手間になる。また、PPAPは、非常に弱いパスワードを設定することもしばしばある。そして、暗号化ZIPファイルについては、パスワードを解読するソフトウェアが配布されている。暗号化ZIPファイルに限らないが、パスワードの解読にあたっては、「ブルートフォース」という手法が用いられる。これは、総当たり攻撃という意味であり、「あらゆる文字列の組み合わせをパスワードに叩き当たるまで入力する」という解読方法である。自転車などの鍵について、4桁の数字を組み合わせるものであれば、0000〜9999まで、当たるまで全部、回していく、というのデジタル版である。この場合、弱いパスワードを入れることの手間を避けるためか、通常、数字や、数文字に設定されることが多い。そして、暗号化ZIPファイルも、上記のブルートフォースで解読を試みるソフトウェアが一般に配布されている。ブルートフォースで解読を突破するのに要する時間であるが、パスワードの長さ、複雑さに比例する。PPAPで一般に用いられるような弱いパスワードであれば、さほど時間をかけずに解読されてしまうことが想定される。したがって、本当に解読されてしまうような場合、PPAPのZIPファイルは、ほとんど無力であるといえる。PPAPは効果がないだけでなくて、手間もかかる。手間は有限であるから、その時間を他の業務か、あるいは情報漏えい対策の時間に充てたほうが合理的である。(4) とにかく「返信」メールを送信するときは、とにかく「返信」機能を使うことが重要である。メーラーには、メールを読む画面に「返信」というボタンを用意してあることが通常である。これは、メールを送ってきた人(送信元)を宛先に入力するなどの定型であるので、これであれば、誤送信をすることがない。また、送られてきたメール(送信元)を宛先に入力するなどであるので、これであれば、誤送信ではないが、誤って別人を宛先として、返信するメールを作成する、という機能である。また、メールは、宛先に、「To」といって、本来の宛先だけではなく、「CC」といって、同報する(同じ内容を同時に送る)機能もある。CCとは、カーボンコピーの略である。昔、タイプライターで書類を作っていた時代に、紙との間に炭素を塗ったカーボン紙というものを挟んで、同時に2通同じ書類を作ることがあった。それにちなんだものである。さて、メールの送信者が、CCで他の人も指定している場合、そのメールについては、CCで指定された人にも知らせたい、ということである。この場合、通常は「返信」すると、送信者としか送信されないので、CC欄の宛先を含めて返信をする場合には、「全員に返信」という機能も用意されていることが多い。それでは、なぜ「全員に返信」機能を使うべきなのか、話が戻ると、事故防止にとても有効であるからである。「返信」機能を利用した場合、原理的に、①そもそも受け取ったメールが誤送信であるか、②送信者がCC先を間違えている、のどちらかでないと、誤送信は基本的に起き得ない。問題については、全然知らない、関係のないメールが届くというもので、①については、送信前に気がつく、というより誤送信しないと「間違っていますよ」と教える程度)の問題になる。問題は、②についてであるが、メールのやりとりの最初の段階で、仮にCC先に知らないメールアドレスが入っていないか、確認しておくことが望ましい。ただし、CCは、先方がどの範囲で情報共有を希望するかといった、相手先の事情の問題なので、こちらで確認することには限度があるだろう。また、そもそも、CCの指定は、相手方の責任で行っているものでもある。いずれにせよ、責任問題ではなく、「返信」機能を使った場合、ミスが起きにくいというだけでなくて、受信側に基本的に一切責任が生じない、というメリットもある。なお、ほとんどのメーラーには、相手方のメールの本文を全部引用して末尾に付ける、という機能がある。この機能を利用すると、メールのやりとりを何度も続けて長文になり、見づらい、コンピュータの動作が重くなる、ということもあるかもしれない。それでも、新たなメールを作成し直したくなる気持ちもわかるが、これも不適切である。なぜなら、新しくメールを作成すると、新たに「To」や「CC」を入力することになる。そうすると、その過程でまた打ち間違いが発生する可能性があるからである。もし、メール文が長くなりすぎて、これを短く(削除)したいのであれば、「返信」機能を使って、送信メールの作成画面に遷移したら、末尾の引用部分を手動で削除するべきである。また、相手のメールに返信するのではなくて、過去にメールのやりとりをしていた人に対して、別件(新作)でメールを送信したい、というケースでも、返信機能を使うべきである。具体的には、メーラーには、過去に送受信したメールの検索機能があるので、これを利用する。送りたい人の名前で検索して、過去のメールのやりとりを見つけ出し、そのメールへの「返信」機能でメールを作成する。そのときにメールのタイトルと本文は削除して作り直す、という手順である。「返信」は、原理的にメールアドレスを打ち間違えるリスクがない。また、その送信元のメールを見ることで、送信先として間違いないかを確認することができる。たとえば、同姓同名の山田太郎さんが2人いたとしても、鋼材の発注元の会社の山田さんと、銀行の山田さんとでは、メールの内容が全く異なるので、混同して誤送信することもない。すでに施行されている方からすれば、「何を当たり前のことを語っているのか?」と思われるかもしれない。実際に情報漏えい事件の相談等を受けている立場からすると、事件は、このような基本すらできていない、怠っている場合に発生するものである。通常、情報漏えいをはじめとするネットトラブルを防止すべき立場にある(つまり、本書を手に取っている方々)は、ネットリテラシーが平均よりはるかに高い。しかし、職場の他の人は必ずしもそうではない。自分を基準にして「これくらいは言わなくても……」は禁物である。2(2)で述べたように、誰でもわかる、使える、実践できるルールが重要である。さて、本件について、具体的なルールとしては、次のようなものが考えられる。すなわち、「電子メールの送信においては、可能な限り『返信』もしくは『全員に返信』機能を使って送信をしなければならない。過去にやりとりをした相手方への送信についても、可能な限り検索機能を使って過去の電子メールへの『返信』を行う形式で行わなければならない。」という内容が考えられる。なお、「可能な限り」という表現は不明確なように思える。もっとも、過去にやりとりをしたものをそもそも検索で見つけられないことはあるし、あまり難しいことを強いるべきではない。もっとも、「返信」機能を使いメールを作成することは、アドレス帳から選ぶ、メールアドレスを手入力するよりはるかに簡単なので、従業員も励行しやすいはずである。(5) タイトルにも一工夫をいくらメールの送信において「返信」機能の利用を励行していたとしても、そもそも、送信先を間違えてしまえば、元も子もない。また、似たような複数の案件(取引)を並行して取り扱うことはしばしばあり、たとえば、A社との取引、B社との取引がそれぞれ並行して動いている場合、Aからのメールについて、Bからのメールと勘違いして、B向けの返信を送ってしまう、ということも十分にあり得ることである(筆者も、そのような情報漏えいの相談を受けたことがあるが、メールを見比べると、これは混同しても仕方がないな、と思うほど似たような内容であった)。筆者の弁護士としての経験でもあるが、メール(フォーム)で問い合わせを受けた場合、「お問い合わせについて」「お見積もりの件について」というようなメールタイトルにすると、長々と同タイトルにのメールが並ぶことになる。たとえば、筆者の場合、取扱案件の性質上当然ネットトラブルであるので、これこそ、似たような問い合わせがひたすら並ぶことになる。それらの違いは、当事者と投稿内容程度、ということになる。気をつけないと、非常にセンシティブな情報を第三者に伝えてしまう事故が起こりかねない。なお、もちろん、メールの一覧には、差出人の氏名が表示される。そのため、まさか間違うわけないだろうとも思える。しかし、意外と氏名、名称の違いというのは気付かないことが多い。そして、業務用上利用しているメールであれば、差出人の氏名が設定されていることがあるが、個人で使っているメールアドレスには、その設定がないことがある。そうなると、ニックネームであったり、特に意味のない英字の羅列が表示されたりして、区別が難しいことも多い。したがって、可能な限り、タイトルに当事者名を入れるとよい。また、タイトルが長くなってしまうという問題もあるが、こちらの名前も入れると親切である。たとえば、「【山田太郎様】ご依頼の件について(弁護士〇〇)」というようなタイトルである。これであれば、先の鋼材の件と混同してしまって送ってしまうリスクは低くなる。また、似たようなタイトル、似たような名前、アドレスについて、誤送信防止のために、何度も確認する手間を節約することにもできる。繰り返しになるが、面倒ではない、わかりやすいルールを作ることが何よりも大事である。簡単にできて、わかりやすくないと、遵守しにくくなり、それがルール無視、そしてそこからの事故につながるからである。メールタイトルに関して具体的なルールとしては、次のような定めが考えられる。「電子メールの表題の作成にあたっては送信先の氏名又は名称を含めなければならない。」(6) メールは保存しておこう情報漏えい防止というよりも、社内の情報共有、不祥事や顧客からのクレーム対策が主目的であるが、メールの保存は慣行するべきである。もちろん、すべてのメールを保存するのは手間であるので、ある程度大事なメールに限って、ということになる。なお、メールの受信には、POP3 (Post Office Protocol 3)と、IMAP4 (Internet Message Access Protocol 4)という2つのプロトコル(通信方式の規格)がある。前者は、古くから使われているものであり、メールサーバ(メールサービスを提供しているコンピュータ)から、受信したメールをダウンロードし、ユーザーの端末に保存する、そのメールは削除(一定期間を置く場合もある)するというものである。後者は、メールサーバ上に利用者の端末の状況を同期させる、メールをダウンロードするが、削除については明示的に操作しないと行われない、というものである。ウェブ上で提供されるメールサービスのように、いつでもどこでも、同じサービス提供元のメールボックスを閲覧・操作するものである。前者はついては端末にダウンロードされれば、いつかはメールは削除される運命である。端末から削除してしまえば、そのメールは完全に削除されたということになる。また、後者については、そのようなことはないが、メールボックスの容量は有限であるので、いつかは削除されることも想定しないといけない。加えて、いずれにせよ、過失などでメールアカウントが廃止された場合、そのメールは閲覧できなくなる、ということになる。したがって、メールの保存については依存しておく必要がある。また、メールの保存は連絡の記録のためだけではなく、取引(案件)の処理状況を明らかにして、情報共有をし、取引先・消費者との円滑な関係を築くためにも重要である。たとえば、クラウドで案件(顧客)ごとにフォルダを分けている場合、そのフォルダに日付を記載したファイル名でメールを保存しておけば、進捗を容易に把握することができる。以下のような形式で保存しておけば、第三者が見ても進捗を容易に把握することができるので便利である。20230319 問い合わせ .pdf20230320 返信 .pdf20230322 要件の聞き取り .pdf20230323 見積りの提案 .pdf20230324 質問への対応 .pdf20230326 受注 .pdfなお、筆者も、弁護士業務において励行していることであるが、事件の進捗があると、細かいことでも、なるべくメールで依頼者に報告をし、かつ、その報告メールをファイルで保存しておくことにしている。こうすると、進捗状況に関するメモを依頼者への報告を兼用することができて合理的である。また、何より、上記のように進捗状況を一見して把握することができる。また、記録を残しておくことで、顧客とのトラブルを防止することもでき、不祥事防止、あるいは、不祥事が起きた場合の合理的な対応も行うことができる。顧客とのやりとりだけではなく、社内のやりとりについても、重要なものを保存しておけば、インターネット上においてデマによる中傷被害を受けた場合に発信者情報開示請求が認められやすくなる(前著『インターネット・SNSトラブルの法務対応』で触れたが、社内資料でも業務の過程で作成したものは、裁判上、有力な証拠になる)。さて、具体的な保存方法であるが、ほとんどのメーラーには、メールの「印刷」機能が備わっている。さらに、印刷といっても紙ではなく、PDFについて出力(PDF 出力)を、選べば、物理的にプリントアウトするのではなく、PDFファイルで保存することができる。このように保存したメールは、裁判でもたびたび証拠として提出されており、訴訟の帰趨を決めることもある。前述したように、ネットトラブルの裁判において、一定の情報共有、指導をしていた事実を証明することができれば、それは非常に有利な要素になるので、業務の円滑化、苦情防止の観点だけではなく、紛争対応の立場からも、励行するべきである。(7) 安全な通信方法電子メールは、インターネットでも初期に考案されたシステムである。たとえば、前述のPOP3の最初のバージョンであるPOPが策定されたのは、1984(昭和59)年のことである。当時は、今日ほどセキュリティや通信傍受について配慮されておらず、通信は、平文(暗号化されていないデータのこと)で行うことが通常であった。通常、インターネットの通信は有線であれば傍受のリスクは少ない。また、無線LANであっても、ほとんど暗号化されており、暗号化されていない無線LANは珍しい。もっとも、最近はテザリングが普及し、かつ、家庭の無線LANの中には、暗号化されていなかったり、あるいは、暗号化してあっても古い規格に解読されているものもあったりすることもある。無線LANの暗号化には、かつて、WEP (Wired Equivalent Privacy) という方式が用いられていた。これについては、脆弱性が見出され、簡単に解読されてしまうことが知られている。現在は、WPA (Wi-Fi Protected Access)ないし後継のWPA2が主流である。WEPは、不正アクセスの被害が相次いでいるので、仮にまだ使用しているのであれば、ただちにルーターの設定を変更するべきである。また、無線のLANサービスが普及しているところ、こうしたサービスは暗号化されていない場合もある。接続している無線LANについて、暗号化されている・されていないや解読された場合、傍受されるリスクが生じる。最近は、メールの送受信については、暗号化されたプロトコルが標準で、ウェブサイトについても同様であるが、用心に越したことはない。特に、筆者の経験上、WEPの解読の問題は深刻である。解読されると、偽って情報漏えいのリスクが生じるだけではなく、接続されて無断で自己の契約しているインターネット回線が利用されてしまうという問題が生じる。そして、誹謗中傷や脅迫などの投稿に利用された場合、投稿者として責任を追及されて犯罪に巻き込まれることもある。極端なことを言えば、自分の回線を無断で犯行予告に使われて、誤認逮捕されてしまうリスクもないではない。不正アクセスの被害に遭うというのは、全く別の世界の話題と思われているかもしれない。ただ、このWEPの問題はかなり深刻で、まだまだ現役で利用されているケースも多い。筆者の経験上も、身に覚えのない投稿について責任追及されているという相談の中で、このWEPの問題が相当割合を占める。そして、暗号が解読されたせいであり、責任はない、ということが認められた場合もあるが、基本的に裁判所にそのような理屈を認めてもらうのは相当に難しい。したがって、パソコンなどのデバイスを自宅に持ち帰り、仕事をする可能性に場合には、以下のようなルールを設定するべきである。「暗号化(ただし、WEP 形式を除く)されたWi-Fiでなければ、業務用の端末や、業務用のデータが格納された端末を接続してはならない。」(8) 標的型攻撃メールに注意コンピュータウィルスとは、悪意をもって作成されたソフトウェアの一種で、利用者の想定しない有害な、たとえばデータの削除や、漏えい等の動作をさせるものをいう。自身の所有するデータのコピーが添付されたメールを勝手に送信する、接続されているストレージに自身の所有するデータをコピーして格納するなど、自然界のウィルスのように感染してそれを広げる振る舞いをするので、「ウィルス」という名前が付けられている。ひと昔前は、様々なものが流行していたが、最近は全くなくなったということではなく、減少したといわれる。これは、ワクチンソフト(コンピュータウィルスを検出、除去するソフトウェア)の普及が、OSそのものにワクチンソフトの機能が備え付けられたことなどが要因かと思われる。しかしながら、それでも検出が大変なりながらのが、「標的型攻撃メール」である。これは、特定の組織を標的として、コンピュータウィルスを添付したメールを送信し、それを開封、実行させることで、デバイスに感染させ、主にデータを盗み取るために使われる。コンピュータウィルス付きのメールというのは古くからあるもので、読者も受け取ったことがあるだろう。昔のだが、英語だったり、やけに怪しい内容だったり、「見てください!」「助けてください!」などの、あからさまに怪しいものがほとんどである。そうなると、添付ファイルを開くことは想定しがたい。しかしながら、標的型攻撃メールは、特定の組織を標的としているので、その組織に「あったこと」メールを送信してくる。「見てください!」だったら無視することもできるが、たとえば、「弊社製品〇〇について」などというタイトルで、欠陥情報のような内容で、添付ファイルが「詳細内容」であったら、思わず開封してしまうこともあろう。見ず知らずの他人が作ったメールであったり、あるいは、自分への人事評価であったり、とにかく見ずにはいられないようなタイトル、文面にすることが通常である。また、その標的に合わせたオリジナルのコンピュータウィルスを作成することが通常であるので、市販の対策ソフトが検出できないこともあるのも、厄介である。基本的に、メールを開いただけでは、コンピュータウィルスに感染させられているかを知ることは難しい。ただ、添付ファイルを開いた場合、それが悪意のあるソフトウェアであると、ウィルスに感染し、データ破壊や漏えいにつながることになる。もっとも、標的型攻撃メールが特定組織を狙ったものであるといっても、自身のメールのやりとりをのぞき見ているわけではない。あくまでも、業種等から興味を引きそうなメール文面を作成して送っているだけである。したがって、よく知らない送信者であったり、あるいは、送信者の所属組織は知っていても、知らない名前の人であったり、前後の脈絡がつながらなかったりなど、そのような不審点には気がつくことができる。標的型攻撃メールについて何かルールを定めることは難しいが、留意点として、次のようなものが挙げられる。① 突如として大事な話題に関するメールが送られてきている。② 見知らぬ組織、あるいは、所属名は知っていても、その個人名は知らない人である。③ メールの署名(メール末尾に記載する所属と氏名を記載した部分)がない、あるいは、普段、その組織・人が使っているものと違うものである。④ 添付ファイルがあるが、メール本文に詳しい説明がない。⑤ 誤送信メールである(間違って秘密情報を送ったように見せかけて、興味を引こうとする手口は多い)。法的な対策として、標的型攻撃メールを完全に防御することは難しい。したがって、これが原因で情報漏えいをした場合、法的な責任が求められるも要件である故意(わざと)か、過失(落ち度)かを認定することは難しいという指摘もあるだろう。ただ、それでも標的型攻撃メールについては、総務省も注意喚起をしており、防ごうと思えば防げたわけであるため、結局は情報漏えい者の責任が認められる可能性が高いと思われる。
(1) はじめに:筆者の経験筆者は、弁護士としての独立が比較的、早いほうであったため、業務に使うITツールを自分で決める必要があった。業務の効率化、コストの削減、そしてセキュリティの確保など、いろいろな基準でツールを選び、あるいは変更してきたが、教訓としては、次のようなものがある。これは、企業におけるネットトラブルの防止の観点からも参考になる視点ではないかと思う。① システムのコストは金銭コストだけではなくて、運用の手間隙も含まれる。そして、後者のほうが過酷である。② 素晴らしいルールを定めても、遵守に手間隙がかかるのであれば、①と同じ問題が生じる。③ 手間隙がかかるルールは、守れなくなるばかりか、かえってミスを誘発して事故の原因となる。④ 自分のミスは自分では気づかない。企業におけるネットトラブルの予防法というと、厳格なルールを定めることが有効に思われがちであるが、そうではない。筆者は、情報漏えいや不適切な発信などのネットトラブルについて相談が持ち込まれると、まず社内ルールの有無とその運用状態を尋ねるが、全くルールがないというケースばかりではなく、むしろ厳格なルールが定められていたにもかかわらず守られていなかった、というケースもしばしば目にする。したがって、ルールの策定にあたって、守りやすさなども考慮する必要がある(詳細は(2)で述べる)。コラム4 弁護士業界と情報漏えいと IT 化米国には、スミソニアン博物館という国立の博物館がある。博物館の展示品は多岐にわたるが、その中の1つにタイプライターで有名な産業遺産というものがある。この産業遺産に、「ファクシミリ」が加わったというニュースが報じられたが、同時に、いまだに日本ではファクシミリが現役であることが話題になった。法律事務所においては、ファクシミリはまだまだ現役バリバリである。何といっても、こんな定めがあるくらいである。民事訴訟規則3条1項柱書裁判所に提出すべき書面は、次に掲げるものを除き、ファクシミリを利用して送信することにより提出することができる。(以下略)同2項ファクシミリを利用して書面が提出されたときは、裁判所が受信した時に、当該書面が裁判所に提出されたものとみなす。わざわざ裁判所の窓口まで持参する、郵送する(センシティブな情報が満載なので、郵送には本当に気を使う)などよりも、ファクシミリのほうがはるかに便利であるが、時代遅れの感は否めない。ファクシミリの誤送信の事故はたびたびあるので、事前にテスト送信する、電話して「届きましたか?」と確認するなど、未だに本当にアナログなことをしている。このような事務コストは、最終的には弁護士の依頼者に転嫁されかねないので、依頼者にとっても裁判手続のIT化は喫緊の課題であるといえる。特に、令和2年以降、新型コロナウイルスの爆発的感染拡大に伴い、極力、裁判や法廷に行くことは避けるべきとされた。現在、行動制限は緩和され、マスクも個人の判断ということとされたが、それでも新型コロナウイルスは未だに猛威を振るっている。裁判所も弁護士会も、テレビ電話の活用を続けているという状況である。こうした中、裁判所は、インターネットを利用して双方の画像と音声を認識できる、いわゆるウェブ会議システムを利用したテレビ電話にて裁判期日を実施することを広く認めている。もちろん、尋問など難しいが、法廷に行かないでできることは、極力オンラインでやろう、ということである。裁判所のそばに法律事務所を設置している弁護士でも、往復時間や待ち時間などで30分程度は使うし、裁判期日本体は数分で終わる、一時時間がかかるのは、「次の期日の調整」であったりする。このような不合理な時間の使い方を防止でき、移動時間が削減できれば、お互いの時間設定を柔軟にできるので、期日調整もスムーズである。民事訴訪のIT化は、裁判の迅速化にもつながっている。ところで、IT化するとなると、弁護士が保存している裁判資料、電子化されることになる、たとえば、事件記録をPDFで保存するなどである。そうすると、当然、情報漏えいが問題になる。もちろん、以前から、書類が紙に吹かれて飛んでいった、などというような漏えいはあったが、電子化された書類であると、その影響は深刻である。1枚2枚の書類であれば紙に書かれるが、記録のファイル1冊がまるごと吹き飛ぶことはない。しかし、電子化された場合、たとえば、USBメモリであれば、落としてファイル1冊分の情報が漏えいする可能性を洗る。筆者が耳にしただけでも、事件記録を入れたUSBメモリを紛失した、事件について投稿するメーリングリストについて第三者が閲覧できるようになっていた、そのような事例が発生している。さらに、弁護士が参加するメーリングリストに、故意に投稿するとやりとりなどが誤送信されるという事故も目にするところがある。大勢の弁護士が参加しているので、相手方(敵方)の弁護士もいるかもしれない、自分の身に起きたら……と考えると非常に心配になる(こうした事故の防止方法、心がけについては、本書においても扱う)。このような情報漏えいについて、IT化、記録の電子化が原因であるとして、そもそもセンシティブな情報を電子化するべきではない、という議論もある。しかしながら、紙にしたところで風に吹かれて飛んで行ってしまうことはあるため、電子化されたから危険であるということとは必ずしもいえない。さらに、弁護士が作成する文書は、証拠類と同様にセンシティブな内容が含まれる。センシティブな情報の電子化を拒むのであれば、同時に、文書作成の電子化してはいけない、ということになる。そうすると、文書作成にパソコンを使わないで手書きで行うべき、ということになりかねない。つまり、IT化はもはや避けがたい、どのように情報漏えいなどのトラブルを避けるべきか、それを真剣に考えるべきである。「情報漏えいが怖いので電子化はしない」は、もはや時代遅れの発想であるだろう。(2) ルール作りと運用の3原則① わかりやすいこと② 実行が簡単であること③ 文書にしておくことまず、①が大事なのは、理解していただきやすいと思う。ルールは守ってもらうためにあるわけだから、わかりやすいことは、どんなルールにおいても必須である。もっとも、ネットトラブル防止の観点からは、わかりやすいことは十分に意識しないといけない。しかし、こうしたルールを作るのは「詳しい」人が担うことが多い。そのため、詳しい人が詳しい人のために、詳しい人でないとわからないような難しいルールを作ってしまいがちである。実際、筆者の経験上も、失語や情報漏えいの事件を起こした企業の中には、立派なルールが備わっていたことも少なくない。しかし、ルールが守られていないから、事故が発生したのである。といっても、ルール無視の不良社員が起こしたかと思いきや、そういうわけではなく、ルールの内容を正確に理解していなかったことが原因であるケースが大半である。具体例を挙げると、公式アカウントの情報発信について、「意見が対立している分野については言及しないこと」「政治的なことは発信しないこと」などのルールがあり得る。しかし、意見が対立している分野かどうかについては、個々人の基準次第でどうにでも解釈されてしまう。電車と飛行機、どちらが速いかと聞かれれば、飛行機と答える方が多そうだが、値段や手続時間、遅延リスクまで入れたらどうなのか、と問われると答えが分かれるだろう。この例において、あらゆる分野について意見の対立は想定されるのであり、厳密に考えれば何も言うなということ等しい。逆に厳密に考えないのであれば、自由に何でも発信してよいのか、ということになる。もっとも、情報漏えい防止のためのルールとして、「指示されたソフトウェア以外はインストールしないこと」と定めたところで、ダウンロードしたファイル(ソフトウェア)をダブルクリックして実行してしまう人にはあまり意味がない。その他、「業務用データを外部に持ち出さないように」と定めたところで、USBメモリに入れて持ち出しはしなくても、個人用の電子メールアドレスに業務用データを送信して、それで持ち帰り仕事をするのは持ち出しではない、と勘違いされることはあり得る。ルール上のニュアンスについて、知っている人は詳しいかもしれないが、そんなことはないという場合は「(笑)」と思われるかもしれないが、実際にはよくある話である。では、具体的に、「わかりやすい」とはどのようなルールをいうのだろうか。具体例については、本章3節以降のそれぞれトピック(注意点)において説明するが、「誰が読んでも同じ意味にとれること」が望ましい。もっとも、法律の条文が、読んでも同じ意味にとれる解釈の幅がない、あっても少ない)ということがポイントである。もっとも、法律がそうであるように、あるルールを、誰もが見ても同じ意味に理解できるように文章化することは不可能である。ただ、それに近づけることはできるので、できる限り工夫をしよう、ということである。次に実行が簡単であること、実はこれが最も重要である。企業の情報セキュリティに関する情報漏えい防止の策に、実行が簡単でないと困る、つまりは面倒なのはだめだというは何の持ち事か、と思われるかもしれない。しかし、これこそが最も重要な要素である。面倒なルールは、特にそれが事故防止、安全にかかわるものであり、守らなくても普段は大丈夫(事故にまでつながらない)なので、守られにくくなってしまうからである。したがって、不適切な情報発信の防止のために、SNSの投稿1つひとつに、複数の担当者の決裁を必須にする、情報漏えいの防止のために、ファイルごとに、個別に暗号化、使用のたびに暗号化(暗号化した状態に戻すこと)を徹底する、そのような手間のかかるルールを定めるべきではない。誰でも、さほど手間をかけずに実行できるルールを設定することが有効である。これについても、具体例は、本章3節以降でそれぞれ解説する。
(1) なぜルールを作るのかネットトラブルのうち、情報漏えいは従業員の故意の過失により生じるものである。つまり、従業員がわざと、あるいは不注意で情報漏えいしなければ起きるものではない。情報漏えいは、不正アクセスなどの例外を除けば、企業が加害者であり、それが起きるかどうかは、企業(従業員)自身の問題である。したがって、情報漏えいは、企業内できちんとルールを定め、かつ、それを従業員が遵守すれば基本的にはすべて防げる、ということになる。したがって、ルール作りは重要である。正確には情報漏えいとはいえない、従業員や公式アカウントの不用意な言動による「炎上」についても同様である。企業の対外的な情報発信で炎上するケースは、後から出てくるが、「なぜそんなことを言ったのだろうか」というケースが多い。たとえば、就活生への無茶な要求、他社製品との露骨な比較などである。このような投稿は、たとえば、「一定のテーマを禁止する」「事前に複数名で確認する」などを徹底すれば、防げるはずである。また、炎上という域にはとどまらなくても、不適切な言動というのは、誹謗中傷の呼び水となる。もちろん、誹謗中傷においては被害者に責任はない。しかし、被害者に「原因」があることは珍しくない。たとえば、政治的に賛否の分かれているトピックにおいて、片方を応援するかのような(そう理解できる)投稿をした場合、それ自体はもちろん悪いことではない。ただ、それがきっかけで誹謗中傷の被害に遭うということは容易に想定できる。そして、その被害回復の困難性は第1章で繰り返し述べたとおりである。ネットトラブルのうち、誹謗中傷については、「自分は悪くない。悪いのは加害者である」というのは、正しいのだが、その正しさは企業にとってたいした意味がない(正しくても被害回復できない)のである。ネットトラブルの大部分は、従業員の心がけ次第で予防することができる。そして、その心がけを根付かせ、守らせるには、ルールを適切に作成することが重要である。(2) 企業のルールには何があるか企業(会社)のルールというと、真っ先に会社法が浮かぶと思われるが、ネットトラブルにおいて重要なルールはそれではない。ネットトラブルにおいて重要なルールは、従業員と企業との関係を定める労働法、特に労働契約法であり、就業規則である。就業規則は、使用者がつくりあいまであるが自由に定めることができる職場のルールである。なお、自由に定められるといっても、作成や変更には一定の制限がある。就業規則は、10人以上の従業員を常時使用する場合には、作成が義務づけられている(労働基準法89条柱書)。通常は、従業員の賃金や労働時間、休暇休憩などの待遇や服務に関する細かいルールを定めていることが多い。ひな型も書籍やインターネットで豊富に入手することができ、通常は、これらのひな型に各企業の個性、事情を踏まえた修正を施して採用しているケースが多い。就業規則においては、従業員の服務に関するルールも定めることができる。つまり、一定の義務を従業員に課して、これに違反する者に懲戒処分を予定することで、一定の行為をすること、あるいはしてはならないことを義務づけることができるのである。(1)で触れたとおり、ルールを作成するのは、従業員にネットトラブル予防のための心がけを身につけてもらう、ルールを守ってもらうためである。労働契約法は法律なので、各企業がそれぞれ定めることはできない。したがって、自由に定めることができる、この就業規則でルールを定める、ということになる。(3) いらないけれども必要な就業規則の記載(2)で就業規則によってルールを定めるべきであると述べた。しかし、理論的・形式的にいうと、ネットトラブルの予防法やネット利用上の禁止事項などについて就業規則に定める必要はない。法律上の義務はないのはもちろんのこと、実務上でもインターネットの不適切利用(情報漏えいや、他人の権利を侵害する投稿)をすることは、既存の就業規則に違反するからである。要するに、わざわざ定めなくても、インターネットの不適切利用は禁止されているし、それにより懲戒処分を受けることも当然であり、既存の就業規則にも違反する、ということである。たとえば、厚生労働省が提供しているモデル就業規則には「服務規律」がある。この67条には「会社は、労働者が次条のいずれかに該当する場合は、その情状に応じ、次の区分により懲戒を行う(後略)」という定めがある。そして、次条(68条)は懲戒事由を定めているが、1項3に「過失により会社に損害を与えたとき。」との定めがある。また、同2項9では故意の場合も定められており、情報流出はもちろん、誹謗中傷をはじめとしたインターネットの不適切利用は、これらに該当することは明らかである。したがって、就業規則の定めが「足りなくて」ネットトラブルに対応できないということは基本的にあり得ない。筆者の経験上も、これが問題になった事案に接したことは一度もない。それにもかかわらず、就業規則にルールが「必要な」理由は、次の3点からである。① 従業員への周知・教育効果がある。② 違反時の指導が容易になる。③ 違反時の処分が容易になる。①企業は、就業規則について、意見を集めたり(労働基準法90条1項)、周知をする義務がある(同法106条1項)。従業員は就業規則を遵守する義務があり、就業規則への違反は懲戒等の不利益な取扱いの理由になる。したがって、従業員にとって、就業規則に記載されたことに十分注意をし、守る動機にもなる、ということである。本項では、今後、研修のノウハウについても触れていくが、決まりを遵守させる上で重要なのは、「会社のためだけではない。違反をすれば自分にも不利益・責任が生じる」ということを実感してもらうことである。筆者は、企業向けに研修講師を務めることもあるが、「従業員個人に責任が生じる」という話をすると、会場の空気が少し変わる(集中して聞いてもらえる)ことをたびたび実感している。このような意味で、従業員への周知・教育効果を狙って、就業規則に定めを置くことは有効である。②次に、違反時の指導が効果的になるという点も重要である。違反があったが、実際に損害がなかったというケースで、ただちに懲戒処分にするほどではないケースで有用である。たとえば、顧客情報を社外に持ち出してはいけない、というルールがあるにもかかわらず、これに違反したが実際に漏えいなどはなかった、持ち出した期間も短かったような場合には、解雇はもちろん、何らかの懲戒処分とすることも難しいであろう。ただ、こうした場合に、「貴殿は、社外持ち出しが禁じられている顧客データ〇〇〇をUSBメモリにコピーし、これを社外に持ち出しました、このような行為は、就業規則〇〇条〇に違反する行為です。今後、このような行為を行わないように、ここに指導します。」という文書でも指導が容易になる。具体的に、指導をする場合でも、就業規則への違反を指摘することができれば、説得力も増すといえる。③さらに、あまりに悪質であり、懲戒処分をする場合にも有益である。就業規則に直接違反している、また、②のような指導を繰り返したという事実は、懲戒処分の有効性を争われた場合の非常に有力な武器になる。ネットトラブルに限らないが、従業員を懲戒する、特に解雇処分については、それまでの積み重ねが大事である。「前々から不良社員だった。これで堪忍袋の緒が切れたので、解雇する!」というのは、なかなか通用しないことが多い。それまでに、問題を指摘して指導に努めてきたが、一向に改善しない、といううことが重要になる。以上、要するに、就業規則にネットトラブルの予防のために、ネットの利用について定めることは、純粋に法的にいえば、必要はない。私的利用や誹謗中傷、情報漏えい、不適切なネットの利用は、いずれも、既存の就業規則に違反するし、懲戒処分ができなくて困るということはまずあり得ない。しかし、それをあえて明文でえて定めることで、従業員に自覚を促し、指導をしゃすくするという効果がある。これが、「いらないけれども必要」であると表現した趣旨である。さて、最後に具体的な定めであるが、理想をいえば、本章2節以降で述べるような内容を具体的に記載することが望ましい。もっとも、就業規則の修正には一定の手間、手続が必要になるため、細かい改正に対応することが難しい。したがって、大まかな基本点だけを定め、細かい部分は、会社の指示に従う、ルールに従う、というように記載することが効果的である。【就業規則に定めを置く場合の文例】第○○条 労働者は、会社から貸与されているコンピュータ、通信回線を適切に利用し、私的に利用(休憩時間を含む。)をし、あるいは会社に対して損害を与える使用をしてはならない。2 労働者は、会社から貸与されているコンピュータ、インターネットの利用について、会社の指示並びに定められたルールを遵守しなければならない。3 会社は、職務上の必要がある場合は、労働者に貸与したコンピュータ、インターネットの利用について、必要な調査を行うことができる。労働者は、この調査に協力しなければならない。後記(4)で触れるとおり、細かい指示については、会社向けの電子メールで注意点、遵守事項を伝えることも必要かつ有効な手段である。このような場合に、おいて、上記2項は、細かい(細かすぎまり)を別に定めることができるという効果がある。上記3項は、不適切使用については、たとえばブラウザのアクセス履歴を確認する必要も出てくるので、その調査権限を定めたものである。もちろん、これらの条項がなくても、会社に損害を与えるような利用をしてはならないのは、当然である(1項)。従来から各社が持っているような就業規則には、会社の物品を適正に利用しなければならない、業務外に利用してはいけない、利用することで会社に損害を与えてはいけないという趣旨の定めがあるはずである。それでも、理論的には十分にに対応できる。上記2項や3項についても、概ね同様であろう。もっとも、上記①ないし③で述べたとおり、就業規則上にこのような記載をすることで、従業員に明白に、ネット利用の適正確保のための意識を持たせることができる。また、違反時の指導についても、就業規則の条文を提示することができれば、従業員への教育効果も大きくなるであろう。したがって、こういう定めは、「いらないけれども必要」であり、そして有効に作用する。(4) メールで周知するだけでも効果ありこのようなルールの定めについて、就業規則で細部に至るまで定めるのは現実的ではない。それこそ、本章2節以降で触れるような、「送信」機能の利用や、タイトル、クラウドの関係など、そのようなものをすべて定めるとキリがない。そこで、前記(3)の就業規則の文例の2項に定めるとおり、会社は随時にルールを定めるが、従業員はそれに従うように定めることが適切である。法律の話にたとえると、国会を通す必要がある法律に細則まで定めると大変なので、細部は省令で定める、とする例は多数ある。就業規則と社内ルールもそのような関係にあるといえる。具体的には、社内ルールということで、本章3節以降で触れるようなルールを、随時、メールで周知することが有効である。メールであれば、一種の文章として証拠に残る。そうであれば、遵守しなかった場合に、指導したり、処分をしたりするときも役に立つ。加えて、折に触れて口頭で伝えるより、ルールとして文章の形式で伝えられたほうが、言われるほうも守りやすい。したがって、随時、メールでルールを周知することは有効適切である。
(1) ネットトラブルは企業の「賞罰欄」賞罰欄とは、勲章などをもらった、あるいは、刑事罰を受けたなどを記載する欄である。通常、履歴書を作って就職活動する年齢層の場合には、勲章をもらうにはまだ早いので、たいていの場合は、「賞罰」のうち「罰」があれば記載するということになる。したがって、ほとんどのケースでは、「なし」と記載されることになる。また、そもそも、採用する企業からすれば、「賞」はともかく、「罰」については確認方法がないので、隠されてしまうとどうしようもない、という問題がある。仮に、前科前歴があったとしても、すでに処罰を受けて事件が終わっているのであれば、それを申告せずにマイナスに取り扱うのはどうか、という問題もある。また、そもそも、多くの人が「なし」と記載する以上、スペースの無駄ではないか、他に書かせることがあるのではないか、という話もある。そういうわけで、最近は、必要性がないということで、賞罰欄がない履歴書も多い。筆者は、刑事事件の弁護をすることもあるが、「前科がつくと賞罰欄に書かないといけないんですよね?」と質問を受けることがある。そういう場合、「そうですね、最近は、記載欄がないことが多いですよ」と返している。さて、そのため、企業としては、採用する「個人」については、その賞罰のうち「賞」はともかくとして、「罰」を知る機会はあまりない。筆者としては、前述したとおり、刑罰について前科そのもの(罰金等)以外の不利益を課すのは原則として問題な考えであるので、よい傾向であると思っている。ところが、個人からみた企業の賞罰欄は別である。企業には公用の賞罰欄があり、取引先、顧客、そして応募を検討する就職活動中の学生等から常に閲覧にさらされている。その賞罰欄というのが、他ならぬインターネットの検索結果である。社名で検索すると、不祥事を記載したページや、否定的なキーワードのサジェストが表示されることにより、過去の不祥事(やっかいなことにデマも含まれる)やトラブルが記録されて表示され続ける、ということである。ここで、サジェストというのは、検索キーワードの入力欄や検索結果に、他の検索キーワード候補として表示される言葉のことをいう。たとえば、「〇〇食品工業」で検索すると、入力欄には、「〇〇食品工業 ステルスマーケティング」「〇〇食品工業 産地偽装」と表示されたり、検索結果に、「〇〇食品工業 採用担当者暴言」「〇〇食品工業 パワハラ事件」などと表示されたりすることをいう。企業が不祥事を起こせば、それがネットトラブルであるか否かを問わず、ネット上には多数掲載される。しかし、ネットトラブルであれば、それは非常に顕著である。誹謗中傷やデマであれば、面白おかしく転載され続けるし、情報流出であれば、未発表の内容が見られるということで、これまた興味関心と呼んで拡散が続けられることになる。さらに、企業自身のネットでの情報発信に不手際があった場合は、文字データなので、コピーも簡単で、非常に拡散しやすい。過去に、BtoCの大手メーカーの採用担当者が、災害の最中にその採用活動を非常に短い期間で限定する、就活生を下に見ていうかのような表現をSNSに記載する、そのような文面を就活生に一斉メール送信をして問題となった事案があった。この事件は10年以上前の事件である。しかし、今でも、サジェストには事件関係のキーワードが並び、アーカイブ化していく。そして、災害が起きるたびに、SNSでは、社名と人名とが並んで発信される。これは極端な例であるが、名だたる大企業ですら、このようなトラブルを抱えることもある、ということは留意が必要である。ネットトラブルの事実、不祥事は保存や複製がしやすい。だから、拡散されやすい。そして、保存や拡散された不祥事は、検索により容易に誰でも調べることができなくなること、だからこそ、ネット上の検索結果が、企業にとってのいわば賞罰欄になってしまう、という現状があるのである。わざわざ賞罰欄のあるエントリーシートや履歴書を提出するように、応援する企業の就活生にも、社名などで検索してしっかり調べてくるのである。最初から、過去の不祥事の有無を確認するつもりで検索をするわけではなくても、企業研究の一環として検索したら、ネガティブな情報にたどり着く、ということも十分に想定できる。企業の永続性も、この「ネット上の賞罰欄」の悪影響は非常に大きい。それは、真実であればもちろん、ウソであっても同じである。ネット上のネガティブな投稿を削除してほしい、と企業から相談を受ける際、それに気がついたきっかけについて尋ねると、多くの場合、次のような回答が返ってくる。「検索して見つけたのではなくて、内定者から辞退があったことがきっかけです。辞退理由について尋ねたら、企業名で検索したら〇〇という情報があって、不安になった、家族からも止められた、といわれました。これではじめて気がついて、驚いています」。こういうことは珍しくない。以上のような事情があるので、企業の賞罰欄は綺麗なままがよいし、虚偽があれば、削除請求などの法的措置を積極的に検討すべきである。もっとも、(2)で述べたように、これも容易ではなく、端的にいえば、裁判所はとても冷たい、という現実がある。(2) 冷たい裁判所検索結果が企業の賞罰欄であるというのであれば、そのような結果やサジェストについて削除を求める裁判を検索エンジンの運営会社に対して起こすことも考えられる。しかし、それは容易ではない。ほぼ不可能である、といってもいいくらいである。裁判所は、検索結果に関する訴訟については、請求者にとって非常に厳しい判断をしている。検索エンジンは、インターネットの情報を取得しートを確保するための道具として、社会インフラであると評価されている。裁判所は、この見解に立って、検索結果に手を入れる(削除等を命じる)ことは、非常に慎重なのである。このような判断は、それなりに合理性がある。一定の検索結果の削除を認めると、インターネット上から、それにたどり着く方法が事実上なくなる。仮に検索結果に不備があるのであれば、検索結果そのものを根こそぎ消し去るような方法をとるのではなくて、個別の投稿を削除すればよいのではないか、ということである。この判断に反論することはとても困難であり、この傾向は今後も続くことが見込まれる。裁判例(大高裁令和元年5月24日判タ1465号62頁)は、「人格権としての名誉権に基づき検索事業者による検索結果の削除を求めることができるのは、昭和61年判決に準じて、検索結果の提供が専ら公益を図るものでないことが明らかであるか、当該検索結果に挙る事実が真実ではないことが明らかであって、かつ、被害者が重大にして回復困難な損害を被るおそれがあると認められる場合に限られるというべきである」その主張及び立証の責任は被害者が負うというべきである」という基準を定立している(「最大判平・不受理」により、同判決は確定している)。「重大にして回復困難な損害」が要求されており、請求者は、それを立証する責任があるということで、かなり重い負担である。なお、この事件は、原告は個人であり、50年前に暴力団員であった等の事実がわかる検索結果の削除を求めた事案である。判決では、削除義務は否定された。この事件で、原告は社会的地位が高いという事情があったが、それでも50年前のことであり、もはや暴力団とは関係がないにもかかわらず、それでも検索結果の削除を認めなかったということで、相当に厳しい判断であるといえる。これを企業(法人)に照らして考えてみると、完全な事実無根であり、それを証明できるケースでもない限り、まず検索結果の削除は認められない、ということになるだろう。なお、以上は、検索結果の削除のケースである。個別の記事の削除については、ここまで高度の証明は求められてはいない。もっとも、企業にとって、一番気になる、そして影響が大きいであろう職場の労働環境に関する投稿については、裁判所は非常に厳しい判断をしている。たとえば、「ブラック企業」「パワハラ」は、日常、上司日本語理解できない」といったかなり攻撃的な投稿であっても、権利侵害の明白性(削除請求ではなくて、投稿者の個人情報の開示を求める案件だったので、やや要件が重い)を否定した例(東京地判令和2年1月29日令和1年(ワ)21776号)がある。裁判所の理屈としては、「インターネット上の掲示板には出所不明の虚言や流言飛語、単なる推測や噂話の類いが多数出回っていることは顕著な事実であり、その種の投稿がされたとしても、直ちに社会的評価が低下するとはいえない」ということである。ただ、これについては、筆者の実感と異なるのは、前記のとおりである。このような投稿であっても、就活生が不安がって就職をためらうことはあり得るし、現に起きている。
(1) そもそも加加害者にたどり着けないインターネット上の行動というのは、基本的に匿名で行われる。したがって、加害者は基本的に匿名であり、被害者が被害回復をしようとすれば、それを突き止めるところから始める必要があるということになる。まずは、犯人捜しから始めないといけない。これは大きなハードルである。そして、その犯人捜しについては、いろいろな方法があるが、誹謗中傷(名誉毀損)であれば、「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」(プロバイダ責任制限法。なお、しばしばさらに縮めて「プロ責法」と称される)に基づく、投稿者の情報の開示請求が代表的な手段である。具体的には、投稿がされた掲示板・ブログ等のコンテンツプロバイダに対してIPアドレス(インターネットに接続する個別の端末を識別する符号。インターネット上の電話番号・住所のようなもの)の開示請求を行い、IPアドレスの開示を受ける。インターネットに詳しくない、それで終わるのではなくて、さらに、そのIPアドレスから接続に使った通信会社(経由プロバイダ)を割り出し、その経由プロバイダに対して、投稿者の氏名と住所の開示を求めて、2度目の開示請求をする、ということになる。通信記録は一定期間で処分されるのが通常であるので、以上の手続は非常にすばやく行わないといけない。また、プロバイダ、特に、投稿者の氏名と住所を保有している経由プロバイダにおいては、任意に開示請求には応じない。したがって、経由プロバイダを被告として裁判を起こして、判決で、投稿者の氏名と住所を開示するよう命じてもらう必要がある。これは別にプロバイダが悪徳業者ということではない。開示の要件を満たすかどうかの判断は困難であり、判断を誤って開示してしまった場合、プロバイダは投稿者のプライバシーを違法に侵害したとして、法的な責任を追及されることになりかねない。一方で、開示拒否の判断については、故意または重大な過失、つまり、故意にもしくは、重大な不注意で判断を誤った、という事情がない限りは責任を負わない(プロバイダ責任制限法4条3項)。要するに、法律が、プロバイダに対して、原則は非開示ということで対応しなさい。法律上のその例外を主張する、という態度を採用しているということである。そのため、プロバイダとしては拒否をしておいて、被害者は裁判に訴え、裁判所の判断に従う、という対応を取ることになる。読者の方も、一度くらいは、「ネット上の誹謗中傷問題の解決は難しい」という報道を目にしたことがあると思う。そもそも、スタートライン、つまりは、加害者に請求する時点までに達する(そして、費用的にも高額)のである。さらに、悪口であれば何でもかんでも、発信者情報開示が認められるのかというと、そうではない。法律の要件は、主として「侵害情報の流通によって当該開示の請求をする者の権利が侵害されたことが明らかであるとき」(プロバイダ責任制限法5条1項1号)とあるとされている。権利侵害の明白性が必要である、ということである。これは、単に違法であるというだけではなくて、違法化される事情もうかがわせないということまで求められる、ということである。ある言説によって、不名誉な事実があるとしても、それが社会の正当な関心事であって、相当な根拠があれば、そのような表現は適法となる。典型的なのは、政治家の汚職や、会社においてはいわゆる環境の問題、企業不祥事これに該当する。悪いことをしていないという事実について、一応の証明が必要であるということであり、これを証明するのはかなりの負担であり、開示請求の負担をさらに増大させている。『インターネット・SNSトラブルの法務対応』において繰り返し触れたところであるが、ひどい悪口でも裁判所は、表現の自由(憲法23条1項)への配慮から容易に開示を認めないので、被害者側としては、かなり厳しい状況が続いている。これについては、『インターネット・SNSトラブルの法務対応』51頁で触れているので、詳しくはそちらを参照してほしいが、「バカ」はもちろんのこと「妄想」、あるいは企業の関係では、社長が従業員を精神的に追い詰めて辞めさせるなど、かなりキツイ表現であっても、開示請求が認められていない。なお、2022年10月1日から、プロバイダ責任制限法の改正法が施行された。これにより、1つの手続(裁判)で、発信者の氏名・住所までたどり着けるようになった。これは、1つの手続内で、コンテンツプロバイダと経由プロバイダの双方を相手にする裁判を起こすことができるようにするというものである。具体的な内容は、コラム1をご覧いただきたい。したがって、あくまで、開示請求の手続上の負担が減るというだけである。これまで開示が認められなかった投稿が、ハードルが下がって新たに認められるようになるというものではない。発信者情報開示請求の弁護士費用は、40万円~60万円程度+実費+消費税といったところであり、海外業者が関係するなどの場合は、100万円近くになることもある(なお、上記の簡素化された手続が創設されれば、弁護士費用が低廉になることは期待できる)。個人の被害者にとっては大変な負担であることは論をまたないところであるが、企業であっても、右から左へと支出できるような金額ではない。コラム1 改正法に期待! 新制度って何?これまで述べてきたように、発信者情報開示のハードルは高い。そのハードルの内訳は、コンテンツプロバイダと経由プロバイダに対してそれぞれ発信者情報開示請求をする必要があるため、1回ないし2回の裁判手続を要求されるということである。開示の条件として権利侵害の明白性が求められる、という2点に起因している。そもそも、他の名誉毀損事件、例えば雑誌等であれば、いきなり出版社を訴えることができる。しかし、メディアがインターネットになるだけで、訴える前に2回も裁判をしないといけないことになる。しかも、権利侵害の明白性という高いハードルが設けられている。このハードルを越えられないと、そもそも加害者を訴えることができない、いわば門前払いということになる。もちろん、インターネット上の情報は、すぐに信用されるとは限らないということ、出版などと違って、安易に安直な情報が発信されているし、そういう素朴な感想、世間に流通することはそれ自体に価値がある。インターネット上の表現が、虚偽やそれ以外の表現よりも責任追及をしないというのは、それなりに理由があることかもしれない。他人にたいして否定的な表現をすれば、すぐに、自分の個人情報が相手に知られてしまい、いつ訴えられるかわからないというのであれば、誰も怖くてインターネットに投稿をすることは難しくなるだろう。もっとも、それでも、2回も裁判をしないといけないというのは、あまりに高すぎるハードルである。また、このハードルの高さは、発信者からすれば自分を守る壁になっていると解する(発信者情報開示請求をする)請求者が、この壁を一度越えた場合、双方にとって、次に述べるような状況が生じる。先に述べたように、このようなケースで責任追及をしないとしても、発信者情報開示請求には、弁護士費用を含めて、50万円~100万円近い費用がかかる。一度壁を越えて発信者に迫った請求者というのは、発信者に賠償請求をする時点で、それだけのコストを費やしているのである。そうであるとすれば、請求者としては、もう後には引けない。何としても、弁護士費用+自分が希望する慰謝料額の全額を獲得したいというのが、自然な感情であろう。そうすると、請求額は、100万円を超え、200万円を上回ることも珍しくない。筆者の経験上、訴訟の段階で、200万円から300万円程度の慰謝料の請求がされることが多い。他方で、仮に270万円から300万円の賠償が認められないとしても、200万円ないし300万円の慰謝料と弁護士費用との合計でこの金額になる、ということもある。ただ、そもそもこのような多額の支払を左右する裁判を左右する者はそうそういない。そして、たとえでも、実際の損害額の基準からいえば、100万円に満たず、うまくいって50万円前後である(もちろん、投稿次第である)。そうすると、発信者としては支払に応じられない。請求者としては、元を取りたい。弁護士費用を支払って無批判に終わりたいということがお互いに強引にならざるを得なくなってしまう、ということである。発信者情報開示請求について、これほど高額な費用がかかりながらすれば、請求者においても、途中で交渉の余地があり、発信者も応じることでできる水準の金額で解決できるかもしれない。このような解決ができない発信者情報開示請求のハードルの高さが、開示後の紛争の解決の困難にもつながっている。要するに、発信者情報開示請求の困難性は、請求者(被害者)だけではなくて、発信者(加害者)にとっても、開示費用も賠償額の全額を支払わなければいけない、ということであり、問題解決の支障になっているということである。このような状況は好ましくないので、発信者情報開示請求について、特別な裁判手続を創設する改正法が施行された。総務省は、「発信者情報開示の在り方に関する研究会」を設置し、令和2年4月以降、有識者らにより検討が進められ、同年11月に「発信者情報開示の在り方に関する研究会 最終とりまとめ(案)」が作成された。これを受けて、令和3年4月には、プロバイダ責任制限法の改正案が閣議決定され、衆議院に提出され、衆議院で可決され、参議院で可決・成立し、公布された。法案は複数あるが、その骨子は、発信者情報開示請求のため、正式な訴訟ではない特別な裁判手続(非訟手続)を創設し、コンテンツプロバイダと経由プロバイダへの開示命令を1つの手続で審理して発令できるというものである。また、海外事業者が関連する案件においても(正式な「訴訟」ではなく、おそらくは国際郵便が利用できるようになる)手続が提案されている。要するに、2回も裁判を繰り返す必要がなくなることが期待できる。上記改正は、本書執筆時点ですでに施行され、利用した弁護士からは課題も指摘されているが、概ね合理化・迅速化については、高評価である。そのため、発信者情報開示請求に費やす労力と金銭は、相当程度減じられることが期待できる。具体的には、3分の2、あるいは半額、海外業者が関連する案件であれば、従来の半分未満の費用と期間で請求が行えることもある。また、正式な訴訟であれば、双方の出頭は必ずしも必要ではないし、そうなると、経由プロバイダが東京に集中している関係で、ほとんどの裁判が東京地方裁判所で行われていた(民事訴訟法4条1項・4項により、被告プロバイダの最寄りの裁判所で裁判することが原則である)が、出頭を要しないのであれば、地方の被害者が地元の弁護士に依頼して、発信者情報開示請求をすることも容易になることが期待できる。もちろん、このように発信者の特定までの手続が簡易化・合理化され、コストも削減されたとしても、中で賠償するかどうか問題(賠償金が十分な金額にならない)の解消は、まだまだのことになりそうである。ただそれでも、新制度は、ネットトラブル、特に誹謗中傷等の被害に悩んでいる個人・法人にとっては福音になることは間違いないであろう。本書執筆時点ではまだ制度が始まったばかりだが、コンテンツプロバイダの中には、手続の進行に非協力的なところもあり、まだまだ課題は多そうである。(2) 十分な金額の判決が得られない現実とその理由さて、開示請求が無事に成功して、加害者の氏名・住所を得たとして、それはあくまでもスタートラインである。そこから、損害賠償請求をしなければならない。日本の法律上、不法行為に基づく損害賠償請求(民法709条)の制度は、あくまで損害賠償が問題となっている。填補賠償とは、不法行為が生じた損害を埋め合わせる金額が賠償として認められる、ということである。このように書くと、被害全部を賠償してもらえるのであれば問題はないのではないか、と思われるかもしれない。しかし、ここでいう損害というのは、損害本体のみならず、その加害行為と因果関係を証明する必要がある。つまり、賠償が受けられるのは、その損害と加害行為との因果関係が証明できた範囲に限られる、ということである。しかも、金銭賠償の原則(民法722条1項・417条)といって、請求できるのは金銭のみになるのが原則である。したがって、デマにより名誉を傷つけられたので、それを打ち消すような広告をしてほしい、転載されたデマ投稿について削除してほしいなどを求めることができないのが原則である(謝罪広告という制度はあるが、認められるのは稀である)。そうすると、結局、実際に被害回復はしてもらえない、お金で解決するしかないということになるが、その肝心のお金についても、証明ができた範囲でしか認められず、その金額にはならない、というのが現実である。個人の被害者であれば、その損害は精神的苦痛であり、賠償金は、それに相当する慰謝料ということになるが、この金額は十分ではない。慰謝料というのは精神的苦痛をいわば金銭に換算するものであるが、その相場は非常に安い。インターネット上の投稿については、概ね30万円から50万円程度が平均である。10万円未満ということすらあり得る。100万円を超えるような金額が認められることは稀である。実例を挙げると、実名や顔写真を掲載して、性的な悪口を10回以上投稿したという事案において30万円が認容された判決(東京地判平成28年9月2日 平成28年(ワ)7502号)がある。同事件においては、原告の主張によれば、投稿者を見つけるまでに67万円も費やしたと主張しており、それも請求しているが、一部しか認められておらず、最終的に認められた賠償額は上記(30万円)のとおりそれに満たない金額にとどまっている。上記の事柄の他に、たいていは、弁護士費用にする満たない場合が大部分ということである。なお、一部の報道で、加害者が200万円、300万円を支払った、というような目を見張ることもあるかもしれないが、それらは特殊な例である(詳細はコラム2で解説する)。このようにネット上の表現トラブルに関する慰謝料相場が低いのは、そもそも慰謝料相場全体が低額である、ということが理由である。ネット上の表現トラブルに関する判例集だけが安いのではない。これは、筆者が、慰謝料の関係する法律相談の場において、わかりやすいのでいつも例に挙げていることであるが、死亡慰謝料の相場が2000万円というのが、1つの要因になっている。つまり、人間にとって最も言い難いであろう「死亡」という辛さ、それが2,000万円(もちろん、増額の余地はある数字である)である以上、ネット上の投稿に対する「辛さ」について死亡慰謝料の相場の1割すら認めてもらえないのは当然であるということである。以上は、個人が被害者の場合である。それでは、企業の場合はどうかというと、さらに困難である。企業の損害の根拠は、営業妨害、事業への支障、対応コストなどになるであろう。しかし、裁判所は、ネットの投稿については、「対応時間×時間単価」や「売上減少××××万円」など、そのような金額を積み上げた計算で賠償額を算定してくれない。個人の場合と同様に、ある程度どんぶり勘定で、「一切の事情を考慮して、…ということになり、あまり高くない、弁護士費用にも満たない金額が認容されるにすぎない。ネットの投稿が原因で取引を中止されたとしても、その事実は被害者からはわかりにくいため、証明の余地がない。事業者間取引でも、「ネットで御社に関する投稿を見たので、取引を中止しました」というように言われることは通常考えにくい。「取引を中止する」企業側はそのようなことを説明する義務はなく、そもそも、ネットの記事を真に受けたとも思われたくもないだろうが、ネットの記事が取引中止の原因であるとは告げられない。消費者との取引では、そもそも取引を始めてもらえない(顧客になってもらえない)ので、これまで取引を始めていた。したがって、損害の賠償額について、算定すること自体が非常に難しいことも裁判所で認められる金額の低さにつながっているだろう。裁判例も、企業にとっては厳しいものが多い。たとえば、企業の製品についてその製品と同じ名前のドメインを取得し、その製品が低品質であるなどと記載した事案でも、1,000万円の請求に対して65万円が認容されたにすぎない(大阪地判平成29年3月21日平成28年(ワ)7383号)。なお、同事件において、原告は、発信者情報開示請求の弁護士費用相当額として100万円を請求している。実際に支出した金額は不明であるが、大きく離れないと仮定すると、結果としては、訴訟で被告を回復どころか、「赤字」になった、つまり、経済的には損を広げてしまったといえる(もちろん、問題のウェブサイトを閉鎖させることが目的であったと思われるので失敗と判断することはできない)。他に、架空の口コミ投稿をすることで、業界の比較ランキングサイトにおいて、自己を1位と表示した事件において、競合他社が賠償請求をしたという事案がある。原告は、行為者の特定費用43万2,000円を含む合計354万円を請求したものの、ウェブサイトそのものの掲載による損害は認められず、弁護士費用のうち8,877円が認められたにすぎない(大阪地判平成31年4月11日平成29年(ワ)7764号)。もちろん、このような投稿(ウェブサイト)を企業としては決して放置できない。したがって、このように訴えて違法性を確定させること、投稿を削除させ、二度と同様の行為に及ばないようにさせるためにはやるべきである。企業としては放置できないので、被害が拡大防止はできるし、やらざるを得ない場合もある、ということである。コラム2 ネットトラブル加害ガチャ『加害者SSR』を引けばラッキー?このコラムのタイトルを付けたのは、やや抵抗を覚えた。しかし、ネットトラブル、特に違法な投稿の被害とその回復には、こう言わざるを得ない、身も蓋もない現状がある。それを明確に、それで印象的に説明するには、これが一番と思われるので、あえて付けた次第である。最近のスマートフォンやタブレットで遊ぶゲームの大部分は、最初にお金を払う必要がない(なんなら、最後まで1円も払わなくてもよい)。ただ、お金を払うことで、ゲームを有利に進めるアイテムやキャラクターを入手することができる。購入にあたっては、自由に選択肢から選ぶこともできるが、そうではなくて、俗に「ガチャ」といわれる、一種のくじ引きを行い、ランダムでアイテムやキャラクターが手に入る、というシステムになっている。当然このアイテムやキャラクターが登場するまで、繰り返し購入(地のもの)をするのである。後にクレジットカードや携帯電話会社の料金と合算請求されるので、これを俗に「課金」という)をすることもある。これで、合計額が高額になる、特に未成年者が利用して親に高額請求が来ると、社会問題になったこともある。このように、ガチャで手に入るアイテム、キャラクターの中で、貴重で(滅多に出ない)、強力なものを「SSR」などという。RとはRareのRであり、貴重であるという意味である。SはSuperであり、特に貴重であることを、それが2つ重なるので、「SSR」とは、どこまでも貴重である、という趣旨である。さて、ゲームの解説から離れて本題に戻るが、すでに述べたとおり、ネットトラブル、特にネット上の表現トラブルにおける賠償金は非常に低いというのが現状である。また、10万円もかけて、せっかく特定しても、実際に被害を回復するまでには大きな負担が伴う。もっとも、以上は、裁判で判決まで争った場合である。被害回復に要する費用という話も、加害者が認諾された賠償金を任意に支払わない場合である。ネットトラブルに限ったことではないが、すべての法の紛争が裁判に持ち込まれて判決まで至るわけではない。話し合いで解決せずに判決になり、そして強制執行が成立しない場合に、判決に至るのである。また、強制執行も、被告が任意に履行(支払)に応じない場合にのみ必要になるものである。したがって、裁判を起こす前に、加害者が任意に支払に応じる、それも高額な支払に応じれば、費用を負担しようとする問題は発生しない(ただし、事件のあった事実は残るので、3の問題だけは残る)。裁判であっても、数十万円程度の賠償にしかならない見通しなのに、100万円、200万円といった弁護士費用を払っても任意に相当な金額を支払うケースがあるのか。加害者は「損」なのではないか。そういうケースはたしかに存在する。しかし、数割合においてはわずかであるが、そういうケースはたしかに存在する。たとえば、投稿が脅迫などの内容を含み、刑事事件になっている場合や、加害者が公務員など、そのような処分や懲戒に弱い身分を受けるリスクのある場合、あるいは、それらの事情がなくても、「裁判だけは勘弁してほしい」と裁判について強い忌避感のあるケースなどがこれに該当する。このようなケースにおいては、加害者としては請求を争った場合に、お望み以外になろう(と思っている)ものが多いため、高額であっても、早期に示談する動機があるので、100万円、200万円、あるいはそれ以上の金額で解決が成立するということである。もっとも、ネットトラブルの加害者が、どのような人物であるか、その人物を発信者情報開示請求などで特定するまでわからない。そのため、加害者が任意の支払に応じるかどうかは、運の善し悪しの問題としか言えない。たとえば、未成年者などであり、かつ、反省についても誠実であるケースであれば、被害回復は困難に終わることもあるだろう。つまり、このような誤解が生ずるかどうかは、全く運の問題である。ただ、加害者が特定できる場合であれば、その数に比例して、上記のような解決ができる可能性が増える、ということである。これこそ、まさに、上記の「ガチャ」のようであり、いわゆる「加害者ガチャ」といえる。個人であれ、企業であれ、被害者としてはその被害に相当な損害の賠償が本当に得られるのか否かが決まってしまうのはたまったものではない。だが、それを望まない現実として、このような「加害者ガチャ」次第であることは、留意する必要がある。ネットトラブル案件で、「高額の賠償で解決」という話を聞くこともあるが、これは、加害者のほうに、上記のような事情があった、非常に幸運なケースである場合がほとんどである。裁判で勝って勝負に負ける話誹謗中傷をはじめとするネット上の加害行為の賠償金が安いことについては、(2)において繰り返し強調してきたところである。ただ最近は、裁判所としても、このような事態について問題意識があり、発信者情報開示請求、つまり加害者を見つけるのに費やした弁護士費用を賠償金に加算する、あるいは、そのまま加算しなくても考慮して金額を引き上げるとういこともある。また、そもそもの慰謝料や名誉毀損の金額の算定を高めにする傾向もないわけではない。もっとも、はっきりとした統計上のデータがあるわけではなくて、あくまで、筆者の事件処理上の実感にすぎない。また、ネットトラブルの加害者というのは、裁判外の請求に対しても、裁判になっても(訴状が届いても)、一切を無視するという者も一定数いる。この場合、裁判のルールとして、訴状を受け取っているのに欠席をすると、原告の言い分をすべて認めたという扱いになる。慰謝料というのは法的な評価の話なので、欠席裁判でも満額認められるとは限らないが、基本的に争いがないのであれば、裁判所は非常に高額な慰謝料を認める。そのため、加害者が欠席する、欠席しないまでも、弁護士を付けず反論ができないなどの事情により、裁判所が被告をきちんと認定してくれて高額な判決を得られる場合もないわけではない。したがって、弁護士費用を支払って、まだ余りある・被害回復できる程度の賠償判決を得られた、つまり、裁判に勝つこともあり得る。では、そうであれば、それでめでたしめでたしといえるかというと、もちろん(?)そうではない。民事裁判の判決の主文(判決の結論)には、このような記載がされる。すなわち「被告は、原告に対し、金100万円を支払え」というような記載がされる。なお、実際は、これに加えて、遅延損害金といって、被害の発生日から年3%の利息と、訴訟費用という印紙代の負担なども命じられる。では、裁判所が、「100万円を支払え」といっているのであるから、自動的に被告が支払ってくれるのかというと、そうではない。また、裁判所が勝手に取り立ててくれるかというと、それもそうではない。もちろん、被告の家に押しかけて、勝手に財産を持ち出すなんてことも当然許されない。そんなことをしたら、今度は、こちらが恐喝罪いわれ、責任を問われることになりかねない。裁判所の判決が出れば、みんなそれに従うのかというと、そうではない。意外に思われるかもしれないが、裁判所の判決を無視する(される)ケースは少なくない。判決をして判決まで終わった、勝訴した、控訴もされずに確定した、でも、支払ってくれない、というような相談を弁護士が受けることはしばしばある。裁判所の判決に従わないことについては、罰則は存在しない。これが、刑事事件であれば、罰金を支払わないのであれば、その「代わり」に労役場留置といって、1日5000円、罰金50万円であれば100日間、労働を強制されることになる。しかし、民事訴訟には、そのような制度はない。では、裁判所の判決で認められた賠償金について、被告が任意に支払わない場合はどうするか。この場合、強制執行といって、裁判所に申立てをして、裁判所により、強制的に債務者(強制執行の段階に至った場合、申し立てる元原告を債権者、その相手方である被告を債務者という)の財産を差し押さえるという手続をとることになる。ただ、この手続が非常に大変である。自動的に裁判所は強制執行をしてくれない。裁判所に行って、各種の証明書を取得し、その上で申し立てる必要がある。また、このときに、「どの財産を差し押さえるか」を指定する必要がある。しかし、そもそも債務者の財産というのは、他人の財産の中身である。ある人がどこにどういう財産を持っているかなど、通常はわからないことがほとんどである。たとえば、不動産であれば、その場所がわかれば、登記簿をみて、不動産が所有者を探り出すことはできる。しかし、逆方向、つまり、所有者から所有不動産を割り出すことは容易でない。給料の差押えは、心理的にもプレッシャーをかけることができるので、これも有効ではあるが、そもそも勤務先がわからないことが通常である。また、預金を差し押さえようにも、銀行名だけではなくて、多くの銀行(特に都市銀行)は、支店名までの特定を要求される。ATMやネットバンキング全盛の今日においては、債務者の最寄りの支店に口座があるとは限らない。となると、現実的には預金の差押えも非常に難しい、ということになる。さらに、動産執行といって、債務者の自宅に赴いて、その家財道具等を差し押さえる手続もあるが、これまた非常に困難である。費用も手間もそうであるが、そもそも、差し押さえられる財産がないことがほとんどである。家電製品も、買えば100万円するものでも、売ると1万円にもならない、ということはしばしばである。しかも、生活必需品は差し押さえることが禁じられており、現金は、66万円を超える部分しか差し押さえることができない(民事執行法131条3号 民事執行法施行令1条)。今日、自宅に66万円を超える現金を保管している例は稀であろう。したがって、判決はしばしば、「絵に描いた餅」に終わるのである。ここまでやって、費用をかけても、1円も手に入らない。むしろ、強制執行のために時間と費用をかけてしまって傷口を広げる、いわば「裁判で勝って勝負に負ける」ということは、頻繁に起こる(弁護士であれば、誰しも一度は経験のあることだろう)。このような、裁判所の判決が絵に描いた餅になってしまう現状は、長年、問題視されてきた。そこで、近時の法改正で、財産開示(民事執行法196条以下)、あるいは、第三者からの情報提供(銀行から口座情報を得るなど)(民事執行法204条以下)という制度が創設された。もっとも、このような制度は無条件で使えるわけではない。また、これらの制度を利用するにあたり、別にコストがかかる。また、これらの制度を利用してもわかることは、債務者の財産の場所だけである。債務者が十分な財産をもっていないのであれば、結局は、賠償金を回収することが不可能であることに変わりない。それでもやっぱり回復できない無事に裁判で勝ち、財産を見つけ、強制執行をして、それで判決どおりに回復できたとしても、やっぱり被害は回復できない。ここまで「フルコース」でやった場合、弁護士に支払う費用はもちろんのこと、時間も相当かかる。さらに、弁護士費用は各自負担が原則である。被害者といえども、自分の弁護士費用は自分の財布から出さないといけない。費やした時間も戻ってこない。法律上、年3%の利息が発生するルールになっているが、時間に見合う価値は通常はない。しかも、企業の場合、誹謗中傷によらず、自社の商品やサービスに関するデマにせよ、情報漏えいや悪用、著作権侵害にせよ、できれば、過去のものにしたいところである。時間がかかって、それで解決したという場合、これのプレスリリースをすると、「まだやっていたのか」あるいは「え、そんなことがあったのか」ということで、蒸し返すことにもなりかねないからである。そのため、コラム2で述べたようなケースでもない限り、裁判に勝ち、差押えにも成功しても、やっぱり被害は回復できないのが実情である。コラム3 差押の必勝科目「強制執行制度の説明」「町弁」という言葉を聞いたことがあるだろうか。マチベンとカタカナで書かれることもある。どういう意味かというと、普通の街にいる弁護士、町医者の弁護士版であり、個人の依頼者をお客とする弁護士のことである(もちろん正式な定義があるわけでもないので、これは筆者の理解である)。企業によってですら、弁護士に依頼することはそうよくあることではない。個人であればなおさらである。したがって、町弁は、依頼者にとって最初で最後の弁護士となることが多い。これまでに弁護士に依頼したことがなく、たぶん、これが最初で最後の依頼、ということである。そうなると、町弁としては、依頼を受けるのであれば、あらかじめ詳しく依頼者に説明しないといけない。さもないと、こんなはずじゃなかったとトラブルになるからである。特に個人の間のトラブルだと葛藤案件(双方の感情的対立が激しい案件)も多く、期待外れになると、弁護士に矛先が向いて、それこそ弁護士とのトラブルに発展したりする。これは、勝てるか負けるかの問題はもちろんであるが、それまでにどの程度の時間かのかるのか、勝てるとしても、大綱なのか辛勝なのか、そのような説明も必須である。そして、それよりも大変なのが、「強制執行制度」の説明である。裁判で判決が出れば、自動的に支払ってもらえる、相手方はお手上げで観念して判決にすぐさま従うはず、絶対に裁判所が自動で引き落としてくれるなどという誤解は根強い。しかし、判決が出るまでにこれだけ楽で、しかも個人が相手ということになると、双方の感情対立は激しい。筆者の経験上も、被告席を担当して、支払いを命じる判決が確定したにもかかわらず、一切支払わない、「支払う気はない」と明言される方もまたあった。また、被告側を担当して、「自分で払う気はないので、勝手に差し押さえてもらってよい」などと言われることもしばしばであった。特に訴える側からすると、市民感覚でいえば、「裁判所の判決が出れば自動的に支払ってもらえるはず」というのは自然で一般的な感情であるが、説明してきたとおり、それは実態とは異なる。この点、つまり、判決というのはしばしば絵に描いた餅になってしまうこと。その他に描いた餅を食べられるようにするには、つまり強制執行してお金にするには、相当な苦労が必要であり、しかも、それができるという保証もないことを依頼者に十分説明する必要がある。弁護士であれば、筆者も含めてそのほとんどが、勝訴判決が絵に描いた餅になってしまった経験がある。しかし、これは、市民感覚からは大きく乖離している現実である。この点について説明を尽くすのは、特に当事者が一般市民・個人である町弁にとって必須のテクニックであり、いわば必修科目であるといえる。以上は、町弁の案件、つまり紛争の当事者が一般市民であるケースだけの間題ではない。一方当事者が企業の場合、つまり、本書を手に取るような企業の法務担当者や弁護士であっても、同様のリスクがある。なぜなら、企業に対して、ネット上の表現等で情報発信の加害者になるのは、いずれも個人であることがほとんどであるからである。誹謗中傷のケースであれば、ライバル企業が工作をするというようなことは想定しがたい。一般市民、消費者などが中傷を投稿することがほとんどである。そうすると、上記のうち、絵に描いた餅の問題というのは、企業にとっても常に存在することになる。また、情報流出のケースも同様である。この場合、加害者(事故を起こした者)は、企業自身の従業員ということになるが、従業員は個人である。そうすると、その従業員へ賠償請求すると、やはり個人相手の差押えの問題にぶつかることになる。ネットトラブルにおいて、企業が基本的に被害者になることが多く、加害者はほとんど個人である。したがって、企業間紛争のように「相手に払わないリスク(ただし、倒産する会社で財産がない等のケースを除く)をあまり考えないでよい」ということにはならないのである。
(1) 被害回復の実情と困難性本書の第一弾に当たる『インターネット・SNSトラブルの法務対応』において、繰り返し強調していたことであるが、ネットトラブル(本書では、ネットへの投稿で情報流出等を起因とする法的トラブルを一括して、こう呼ぶこととする)は、被害回復が非常に困難である。その理由の詳細は、本章で触れるが、要するに、加害者を見つけることは大変だし、見つけられても、「被害額に戻せ」とはいえず、金銭が請求できるだけである。加えて、その金銭も結局十分な金額ではなく、そして、しばしば勝訴判決は絵に描いた餅となる。『インターネット・SNSトラブルの法務対応』をお読みになった方の多くは、「ネットトラブルは、被害が大きいだけではなくて、起きてしまった後に解決することも大変である」と実感されたのではないかと思う。これは、まさに本書の企画のきっかけになった視点である。筆者の弁護士としての経験を踏まえると(これは他の事件についてもさる程いえることであるが)、ネットトラブルの被害者が、被害前の状態に回復する程度の賠償を得ることは非常に困難である。筆者は、ネットトラブルの加害者(なお、請求を受けているだけなので、必ずしも不法行為をしたと確定しているわけではない)側の弁護も多数行っているが、多くの事案で、「この賠償額(判決)だと、相手方は弁護士費用の回収もできていないだろう」と感じているというのが実情である。ネットトラブル予防の重要性と本書の内容被害回復が難しい以上は、予防をすることが重要である。本書では、ネットトラブルの予防法、具体的には、情報流出にはどのような原因があるか、誹謗中傷の早期発見、あるいは、それを誘発・炎上させないための心得、ルール作りについて解説する。また、ルールを作ることと守らせることは別の問題である。そこで、研修の実施方法やコツについても解説をする。なお、『インターネット・SNSトラブルの法務対応』でも触れたが、研修を実施すること、そして、その証拠を作ることは、裁判で「勝つ」ための武器にもなる。発生後は再発防止が重要になるが、その具体的な方策、加害者対応についても解説する。特に、情報漏えいと異なり、誹謗中傷であれば、社外に「加害者」がいる。インターネット上の誹謗中傷の加害者というのは、非常に取扱いの難しい存在である。気をつけないと、返り討ちに遭うことさえある。この点を踏まえて解説を行う。また、それに先立ち、本章では、ネットトラブルの予防の重要性を実感していただくために、被害回復が困難な理論的、実務的な問題を取り上げる。昨今、ネット上の誹謗中傷が話題になっているが、加害者の責任が強調される中で、あたかも、誹謗中傷の賠償金が容易に100万円、200万円といった金額に上るとの誤解も生じているようである。筆者は、相談を受ける中で、「報道にあったように、100万円くらいとれるのか?」と尋ねられることがしばしばある。また、同じような案件を取り扱う弁護士同士で情報交換をすると、やはり、そういう期待を抱く被害者が増えている、ということはよく話題に上る。もちろん、実際はそう簡単に100万円、200万円といった賠償金を得ることはできない。また、それ以前の問題(障害)も多数あるから、特に強調しておきたい。また、この視点、つまり被害回復の困難性について理解を深めることは、研修の実施においても重要かつ有益な視点である。人間、大変な問題であるということを実感しないと、真剣にはなれないからである。したがって、本書においては、あえて、予防法の中身に入る前に、この点について詳しく説明する。なぜ予防が大事なのか。それは被害が大きく、被害回復が困難だからであるが、それはどうしてなのか。理論上、さらには事実上の問題について解説したい。
Yは, 不動産仲介等を業となすX会社 (代表者B) の仲介により, 訴外A会社から土地および建物 (以下, 「本件土地建物」 という) を代金3200万円で買い受けた。 上記仲介に際してYに交付された重要事項説明書には, 「市街化調整区域の建築制限あり」 等の記載はあったが, その具体的内容等についての記載はなく説明もなかった。Yは, XおよびBの説明義務違反により, 本件建物を居住および建替えが可能な物件であると誤信して取得し, これらの目的で本件土地建物を購入したことから, その代金と当時の適正価格との差額相当額の損害を被ったとして, 不法行為に基づく損害賠償請求訴訟 (前訴) を, XおよびBに対して提起した。 前訴において, Yは, Xが, 建築制限の具体的内容についてBから相応の説明を受けていたこと, 知人から建築制限についての話を聞いておりその具体的内容を知り得たこと等を主張して争ったが, 審理の結果, Yの請求を認容する判決が言い渡され確定した。 そして, Yは, 前訴の確定判決に基づき強制執行を行い, 賠償額を取り立てた。その後, Xらは, 前訴判決は前訴においてYが虚偽の事実を主張して裁判所を欺罔して取得されたものであると主張して, Yに対し, 不法行為に基づく損害賠償請求訴訟 (後訴) を提起した。 前訴確定判決と後訴の関係に留意しながら, 後訴について裁判所はどのように審理をすべきかについて検討せよ。●参考判例◎① 最判昭44・7・8民集23巻8号1407頁② 最判平10・9・10判時1661号81頁③ 最判平22・4・13集民234号31頁■解説●1 確定判決の無効確定した終局判決において示された判断が判断に影響されるようなことがあれば, 民事裁判の紛争解決機能は損なわれ, また紛争の蒸し返しを招くことにもなりかねない。 このような事態を防ぐために裁判所が認められている。 そして, 確定判決について生じた既判力を認めるのが通例であり, 再審によって確定した終局判決が取り消されない限り, 既判力は否定されないのが判例である。判決が裁判官によって作成され言い渡された場合には, たとえ手続や判決内容に瑕疵があるとしても無効というわけにはいかない。 判決が確定すれば, 裁判の見た目からは, 当然に無効というわけにはいかない。 適法に成立した以上, 自己拘束力も生じることから, 当事者は上訴によってその確定を争うことができるにとどまり, 判決確定後は再審によってのみ争いうるにすぎない。 しかしながら, 手続上は無効と解し直している判決もある。 既判力・執行力・形成力などの内容上の効力を認め得ない場合があり, これを確定判決の無効という。 実在しない者を当事者とした判決, 治外法権者に対する判決, 当事者適格のない者の訴えに対する判決などがその例として挙げられる。それでは, 確定判決が, 一方当事者による相手方に対する訴訟手続への関与や供述資料の提出等の妨害によって取得された場合, 判決の基礎資料の加工・偽造等により裁判所を欺罔し客観的真実に反する不当な内容のものであったような場合 (確定判決の不当取得という) ではどうであろうか。 確定判決の不当取得が再審事由 (338条1項) に該当する場合には, 相手方は再審を経ることによって救済されるのはいうまでもない。 問題は, 再審を経ることなく, 確定判決の無効を後訴で主張することが認められるか, また不法取得した判決に基づく強制執行等によって損害が生じた場合に, 不法行為に基づく損害賠償請求ないし不当利得返還請求が許されるか否かという点についてである。 この問題は, 既判力による法的安定性要求と判決の具体的な妥当性のいずれを重視すべきか, という問題に関わるものであるが, 実務上の困難としては, 再審手続の厳格さ (再審事由の限定判例 (338条1項), 再審期間の制限 (342条) 等) にも起因するものといえる。2 確定判決の不当取得の類型この問題に関するリーディングケースとされる参考判例①は, 不法取得された確定判決の既判力と後訴請求を矛盾すると考えられる場合には, 判決の成立過程において, 訴訟当事者が相手方の権利を害する意図の下に, ① 判決または訴訟手続が相手方当事者の意思に基づかずに意識的に, ② 偽造の事実を主張して裁判所を欺罔するなどの不正な行為により, 本来ありうべからざる内容の確定判決を取得し執行した場合、 といった2つの類型を挙げ, このような場合における救済可能性を認めた。参考判例②は, 「その行為が著しく正義に反し, 確定判決の既判力による法的安定の要請を考慮してもなお容認し得ないような特別の事情がある場合」 に限って再審を経ない救済を許すべき, という要件の加重をしている。確定判決の不当取得の相手方からすれば, ①類型では, 手続関与の機会自体が奪われて手続権自体が侵害されているのに対して, ②類型では, 手続に関与して攻撃防御する機会自体は与えられており虚偽の主張を見破りもする可能性もあったはずであることから, 両者について等しく救済を与える必要はないともいえる。 そのため, 学説においても, 確定判決の不当取得に対する救済論として再審を経ない救済を認めるべきか否かが主として争われるのは, ②類型についてということになる。3 確定判決の不当取得に対する救済策確定判決の不当取得に対する救済策として, 当該判決を再審によって取り消すことなく不法行為に基づく損害賠償請求等を後訴で認めることができるか, という問題について, 学説では, 確定判決の不当取得を理由とする損害賠償請求訴訟は, 前訴判決が既判力を有する以上に抵触することを前提として, 確定判決の不当取得を取り消しうるような損害賠償請求は既判力に抵触し許されないとする見解 (否定説, 兼子一 『新修民事訴訟法体系』 (有斐閣・1965) 333頁, 中野貞一郎 『法廷心理学問題研究』 (有斐閣・1975) 101頁, 上田 476頁など) がある。 この見解に対しては, 再審に要求される要件 (例えば有罪判決の確定 (338条1項5号・2項) など) や制限 (例えば出訴期間の制限 (342条1項・2項) など) が再審による救済を迂遠なものとしている, との批判が挙げられている。他方, 既判力の正当化根拠を手続保障の充足と捉え, 判決の不当取得の場合にはこれが満たされないとして判決の不当性を無効と認め, 再審を経ないでする損害賠償請求訴訟等を肯定する見解 (肯定説, 新堂 682頁, 高橋宏志 1722頁など) も存在する。 この見解に対しては, 既判力が事実審の終結という制度として, 既判力が絶対視されがちで, 執行等の為替の安定に寄与する既存の制度を再審によく, 既判力制度を揺るがすことにもなりかねないという反論がなされている。4 本問に即して(1) 前訴と後訴の関係 確定判決の不当取得がなされた場合に, 再審を経ることなく前訴確定判決の既判力とする請求を後訴においてすることができるかという問題に答えるには, まず前訴確定判決の既判力の後訴請求に対して作用するか否かについて検討しなければならない。 前訴確定判決の既判力が後訴に作用するとすると, ① 前訴と後訴の訴訟物が同一の場合, ② 同一訴訟物ではないが後訴請求が前訴との間で矛盾する場合, ③ 前訴の訴訟物が後訴の訴訟物の先決問題となる場合, の3つが挙げられる。そこで本問における前訴と後訴との関係に着目してみる。 本問における前訴は, YのXに対する説明義務違反を原因とする不法行為に基づく損害賠償請求訴訟であり, 他方, 後訴は, Yのいわゆる訴訟詐欺を理由とする不法行為に基づく損害賠償請求訴訟である。 前訴の訴訟物においても, 訴訟物とはされているのは不法行為に基づく損害賠償請求権 (旧訴訟物理論) であり, 両者の行為が一体である。 訴訟物をこのように捉えるとすると右の②に該当する。両訴訟における不法行為の事実が一体である以上, 訴訟物を特定するに当たっては, 前訴判決の効力は後訴にも及ぶことは前提といえる。この既判力の基礎において後訴の請求を認容できるか否かは, 前訴判決においてXの損害賠償請求権を有しないことを前提とする。 訴訟の基礎との矛盾を回避する。 訴訟においてXの損害賠償請求権を有しないことの判断の前提とせざるを得ない以上, 後訴において前訴確定判決の既判力の主観的範囲と矛盾しており, 既判力の作用としては認める場合も認める。 あるいは, 訴訟物的に前訴判決でXの損害賠償請求権を認めた前訴判決と後訴におけるXの損害賠償請求とは矛盾関係に立つものとして, ②の場合に当たるといった理解も可能といえる。 いずれにせよ, その後訴請求は, 前訴確定判決の既判力に抵触するものと捉えることができる。なお, 本問のベースとした参考判例③においては, 「判決の成立過程における相手方の不正行為を理由として, その判決の既判力が具体的に矛盾する損害賠償請求をすることは, 確定判決の既判力による法的安定を著しく害する結果となるから, 原則として許されるべきではない」とし, 本問の後訴に相当する請求を棄却しているが, 前訴確定判決の既判力が後訴にどのように作用するかについては明確な判断をしていない。(2) 本問の類型 本問におけるXの後訴請求が, 前訴確定判決の既判力に抵触するものであることを前提として, 次に再審を経ない救済がXに認められるかを検討する。参考判例①および参考判例②は, 相手方の手続関与が実質的に妨げられていたという点で, いずれも①類型に属する事案であったといえる。 これに対し, 参考判例③や本問は, Xは前訴において手続に関与する機会が与えられ, その機会を用いてYの主張に対する攻撃防御活動が展開されていたことが看取できることから, ①類型ではなく②類型の事案として位置づけることができる。上述の肯定説は, かかる場合にも救済を認める通説といえ, 不法行為に基づく損害賠償請求についての本案審理を進めるということになる。 そして, 肯定説は, この審理の過程において再審事由の存否についてもあわせて審理すればよいとするが, 本問の前訴においていかなる再審事由があると判断されることになるのかについては疑問の残るところではある。 他方, 否定説の立場に立てば, Xによる後訴は認められるべきではなく (前訴確定判決の既判力作用により後訴は請求棄却となる), 再審を経て前訴確定判決の既判力を破る必要があるが, この場合においてもそもそもYの前訴においていかなる再審事由があるかについては問題が残る。この点について, 参考判例③の原審 (名古屋高判平21・3・19判時2060号81頁) は, Yが市街化調整区域内の建築制限につき知っていながら居住目的で本件土地建物を購入し, 17年後に本件土地建物の議論に際し生じた譲渡損を回復するために, X・Bの説明義務違反により損害を被った旨の虚偽の陳述の上主張立証を巧妙にし, 明確な証拠がないためXの反論が制約されることを利用して前訴裁判所を欺罔し, 本来なら請求が棄却されるはずの前訴において勝訴判決を得て強制執行に及んだ, との認定をし, 「実質的に再審事由に当たるような場合だけでなく, 公序良俗・信義に反するような結果がもたらされる場合にも, その主張を許されるとするのが相当である」として, Xの請求を一部認容した。 これに対し, 参考判例③は, 「原審は, 前訴判決と基本的に同一の証拠関係の下における信用性判断その他の証拠の評価が誤った結果, 前訴判決と異なる事実を認定するに至ったにすぎない」 事案であったと判断し, Xの請求を棄却したものである。 Xによる主張や証拠関係が前訴と後訴において基本的に同じであったとすれば, これにつき, 前訴の主張がYの虚偽の陳述によるものであったとして, 前訴とまったく異なる事実認定をすることは, 再審の既判力制限が働くところのものである。 それゆえ, 参考判例③が 「前訴におけるYの主張や供述が...…故意の認定事実に反していたというだけでは, Yが前訴において虚偽の事実を主張して裁判所を欺罔したというには足りない」と判示したことには説得力があるといえよう。●参考文献◎浅野雄大・百選170頁/渡部美由紀 「確定判決の取得と不法行為の成否」 民商法雑誌143巻3号 (2010) 425頁/垣内秀介・平成22年度重判164頁(垣内秀雄)
Yは, ドライブインの経営等を目的とする株式会社であり, X1, Yら10名が, その株主として各110分の1の株式を有するが, Y1はコロナ禍で経営不振に陥り, これ以上Y会社により事業を継続するのは得策はしいとして, これまでの会社を廃業し, 新たに個人経営の会社を設立するために電磁株主総会を開催したが, 株主のうちXら5名が解散に反対したため議決に至らなかった。 Yらは, Y会社として何ら事業を行っていないのに事業年度毎に負担している状況を脱しようと, Yに解散事由を認めるうえ, 当事者は株主Xらの一部を被告として訴えを提起し (会社833条1項・834条20号), Yは会社の解散を請求する訴え (会社833条1項・834条20号) を提起した。Y1は請求するも, Y1の請求原因たる会社の事業の失敗を認め, 解散事由 (同法833条1項1号) の存在を争わなかった。 裁判所は第1回口頭弁論においてY1の請求を認諾し, Y1の事業継続は極めて困難で解散以外の方法では現状を打破できないとして解散事由の要件を満たすと判断し, 請求認諾判決を言い渡した。この判決の確定後にその存在を知ったX2は, 上記訴訟はY1取締役とY2がいずれも解散を望んで組んだ馴れ合い訴訟であり, Xは参加することができた上記訴訟の帰趨を知らされず, その審理に関与する機会を奪われたとして上記判決の効力を争いたいと考えている。 この場合にXは再審の訴えを提起することができるか。 可能性として, どのような手続により, どのような再審事由を主張することが考えられるか。●参考判例◎① 最決平26・7・10判時2237号42頁② 最決平25・11・21民集67巻8号1686頁■解説●1 対世効が及ぶ第三者による再審確定判決の効力は訴訟当事者に及ぶのが原則である (115条1項1号)。 多数の関係者の間で法律関係を確定する必要から, 例外的に, 判決効が広く第三者にも拡張されることがあり, これを対世 (的) 効 (力) と呼んでいる。 団体関係訴訟や身分訴訟がその例である (人訴24条, 認諾の場合の会社838条)。 ただし, 訴訟に関与しない第三者に対世効を認める前提として, 第三者への手続保障が欠かせない。 そこで, 当該法律関係について最も密接な利害関係をもつ者に当事者適格を付与し (例: 会社833条・834条, 人訴12条・43条・43条), それにより充実した訴訟追行ができるようにする等の方策が備えられている。 さらに, こうして当事者適格を認められた者が, 関係者の知らないうちに訴訟そして判決を確定された場合には, それにより不利益を受ける一定の者が, その取消しを求める再審の訴えを認めることも, ひとつの考案となりうる。では, 株主による責任追及等の訴え (会社853条) のような明文のない場合でも, 本問で上記のとおり確定判決の効力が及ぶXは再審の訴えを提起することができるか。 できるとすればどのような方法によるべきか。 この問題につき, 参考判例②は, 新株発行の無効確認を求める訴訟の請求認容確定判決に対し, 新株を取得した株主に再審の訴えを提起することを認めた。 まず再審事由については, 原決定が元の訴訟当事者の訴訟の係属を知らせず判決を確定させても民事訴訟法338条1項3号の再審事由があるとはいえないとしていたのに対し, 3号事由を認めた (→問題22)。 すなわち, 元の訴訟で被告適格を付されている会社は (会社834条2号), 上述のとおり対世効を受ける第三者に代わって手続に関与する立場にあるので第三者の利益に配慮して一層審議に従った訴訟活動をすることが求められるのに, 会社がそのような訴訟活動を行わないどころか, その訴訟活動が著しく信義に反し, 第三者に判決効を及ぼすことが手続保障の観点から許されない場合には3号事由が認められるとしたのである。また当事者適格については, 独立当事者参加の申出とともにする再審の訴えの提起を認めた。 その理由として, Xのような者は元の訴訟の当事者でない以上, その訴訟の本案について訴訟行為をすることはできず, 当該判決で判決の判断を左右できる地位にはないが, 再審の訴えを提起するとともに独立当事者参加の申出をした場合には, 再審開始の決定が確定した際, 当該独立当事者参加に係る訴訟行為をすることにより, 合一確定の要請 (40条) を介して確定判決の判断を左右することができるようになるので, 再審の訴えを提起する有利になることを示した。 ただし参考判例②では, 再審の訴えを提起する手続に不明点が残っている。2 再審の訴えを提起する手続再審の訴えを提起することができるのは一般に, 確定判決の効力を受け, かつ判決の取消に固有の利益を有する者とされ, これに該当すれば元の訴訟当事者以外にも再審の訴えの提起が認められてきたが, その方法については議論がある。 学説により有力視されてきた方法としては, 再審の訴えを独立当事者参加の申出 (明記されないが旧来の訴訟の参加) とともに提起する方法 (通説), 再審の訴えにつき債権者代位権を有する者への (共同訴訟的) 補助参加の申出とともにする方法 (43条2項・45条2項・46条) がある。 そして参考判例②は, 固有の利益に応じではないものの, 上記通説を共通している。しかし, 独立当事者参加では元の訴訟の請求について当事者となれるわけではないので再審の訴えを提起する資格を取得できないのではないか。 だとすると, 再審の訴えは元の訴訟の請求に補助参加を申し出るとともに提起することとなる。 けれども, 補助参加では, 被参加人の主張できる再審事由しか主張することができず, 訴訟係属を知らされず関与できなかったというX固有の理由を提出できるか, 疑問もある。 そのため通説は独立当事者参加の形式を採ることを主張していた。 ただし補助参加の方法を支持する説も, 判決効が及ぶ第三者が補助参加する場合は単なる補助参加ではなく, 参加人が被参加人と抵触する行為のできる共同訴訟的補助参加となるから, 元の訴訟当事者とほぼ同等の立場を想定している。一方, 参考判例①は, 独立当事者参加の申出を求める意味を, 再審開始決定後の本案審理において合一確定の限度で独自に訴訟追行できることに求めている。 ただし, これについても共同訴訟的補助参加であれば合一確定の要請を介して補助参加人に同様の訴訟追行が可能であると考えられる。 にもかかわらず, 再審の訴えを提起するに独立当事者参加の申出によるなければならないか。 まず, 参考判例②では, 当事者が判決していた独立当事者参加を受け, そのまま再審の訴えを提起する資格が肯定されたため, (共同訴訟的) 補助参加が明確に否定されたわけではないとの見方もあった。3 詐害防止参加における請求の定立再審の訴えを提起するには補助参加でなく独立当事者参加の申出とともにしなければならない。 しかも, 元の訴訟の当事者の少なくとも一方に対し請求を立てなければならないという判例の立場を明確にしたのが, 本問のモデルとした参考判例①である。 この事件では, 株主 (本問のX) が独立当事者参加の申出とともに再審の訴えを提起したものの, 請求を立てることなく元の被告の請求認諾を求めていたところ, 参考判例②を引用して独立当事者参加によることは肯定しつつ, 独立当事者参加につき片面参加を認めていなかったため民訴法下(最判昭45・1・22民集24巻1号1頁)を引用し,再審の適格を認めず訴えを却下した。しかし, 独立当事者参加において参加人独自の請求を定立する必要があるかについては, 参考判例②の企業価値の意見, 山浦善樹裁判官の反対意見の通り, 従来から疑問とされてきた。 有力説によれば, とくに詐害防止参加[→問題23]では当事者による馴れ合い訴訟を阻止すれば十分であり, 訴訟について独自に請求を立てる必要はないとされている (井上治典 「多数当事者訴訟の法理」 (弘文堂・1981) 299頁, 槌田和幸 「離婚訴訟の基礎理論」 (信山社・2008) 187頁, 高橋・重点講義 (下) 520頁等)。そもそも3号再審事由は, 当事者による再審の訴えのように, つねに本案請求について独自の再審事由が必要か, 学説は疑問としている。 判決効を受ける第三者としては, 確定判決を取り消すことができれば目的を達する。 現行法が再審を2段階構造に定め, 再審の訴えの適法要件および再審事由の存否についての審理である第1段階をクリアして再審開始決定が確定してはじめて (348条), 本案の審理に進む (348条) という2段階構造としていること [→問題71] からも, 再審事由の存否, 再審開始を審理する第1段階の手続を提起する資格は, 第2段階の本案当事者の適格の有無と切り離すべきではないか。 企業関係法関連の訴えの被告適格は会社に限定されている以上, 株主が単に請求棄却を求めて被告の立場で独立当事者参加を申し出ることはできないとするが, 第三者としては, まず再審開始決定が得られればよく, その結果は本案訴訟に参加されればよいのである。 不法行為で当事者となれず, しかも会社より強い利害をもって本案訴訟の請求当事者適格を求める地位に立てることも重要である。 信義則対抗も, 無理に技巧的な請求を立てることを要求するのは実情に合わないと指摘している。4 再審事由参考判例①の原決定も原々決定も, 会社の利益理由がないとの主張判断が先立ってか, 3号の再審事由は否定して再審請求を棄却していた。 上記の企業価値から見れば, Y1らは会社の精算後も存続するXらを排除して解散の認容判決を得ることで利益が一致しているともいえるのかもしれない。しかし, 本問のモデルとした参考判例①の事案では, 日本の株主しかいない会社において解散反対者3名の関与を排除した訴訟をし, 会社が積極的に争わなかったわけでない。 元の訴訟の被告 (本問のY) が会社の解散に反対と主張して訴状を作成していた等, 信義則対抗もそれは3号再審事由が認められる余地があった。 参考判例①では, 元の訴訟関係から会社に対して株式の発行の有効性を主張していた株主に訴訟係属を知らせず, 訴訟で被告会社が信義則の請求をまったく争わなかったことが明らかな活動が著しく信義に反し, Xの手続保障を害するとされていたこととからすれば, 参考判例②に基づく本問のほうが, 3号再審事由にあたる可能性が高いのではないか。●参考文献◎杉山悦子 「第三者による再審の訴え」―最決平13巻3号 (2014) 81頁/三木浩一・百選234頁/安西明子・新判例解説Watch16号 (2016) 145頁(安西明子)
YがAに金銭を貸し付け, X会社をその連帯保証人とした (AはX会社代表者の妻の父)。 Yは主債務者Aに直接返済請求, 連帯保証人Xには保証債務請求の訴訟を提起した (前訴)。 この訴状は同居するA・X会社代表者の妻に送達されたが, Yの受け取る訴状等はすべて同居するAが受領した。 AもXもこの訴訟の第1回口頭弁論期日に欠席し, 答弁書等も提出しなかったため, Yの請求を認諾する判決が言い渡された。 この判決書は, A・Xの住所に送達されたが不在でできなかったため, 付郵便送達 (107条〔→問題32〕。 裁判所書記官が書留郵便で書類を発送し, 発送簿に送達があったものとみなされる) が行われた。 AもXも控訴せず, 前訴判決が確定した。Xは, Aの連帯保証をしたことなどなく, AがXに無断でしたことだと主張して, 前訴判決の確定から2年後に, 再審の訴えを提起することができるか。●参考判例◎① 最決平19・3・20民集61巻2号586頁② 最判平4・9・10民集46巻6号553頁■解説●1 再審訴状や判決の送達は応訴や上訴により手続に関与する機会を知る重要な契機であるところ, 被告の知らないままに訴訟が進行し判決が確定した場合, 被告にはまず確定した判決に対する不服申立てとして再審が考えられる。再審とは, 原則として当該判決を下した原裁判所に自判の誤り (340条1項), 当事者が判決確定後再審事由を知った日から30日間に (342条1項), 確定判決の取消し・変更を求める不服申立てである。 確定判決に対するものであるから, それなりの厳格な要件がある。 確定判決であっても放棄できないほど重要な瑕疵として再審事由が規定されている (338条1項各号)。再審事由は, 再審事由の存在が確定されれば再審開始決定をして (346条), その決定が確定した後はじめて本案再審手続に入れる (348条)。 再審事由が認められない場合には (再審) 請求棄却決定の形で終了される (345条2項)。 この決定に対しては即時抗告という形で不服申立てができる (347条)。 抗告には, 決定に対する上訴であり (328条以下) [→問題22], 即時抗告は裁判の告知を受けた日から1週間以内にしなければならない (332条)。 なお, 即時抗告を受けた高等裁判所の決定に対し, さらに不服がある場合, 最高裁判所への許可抗告の可能性もある (337条)。 現行法は上訴制度改革 [→問題31]の1つとして, 重要な法律問題について高等裁判所の判断が分かれているような場合に法令解釈の統一を図るため, 高等裁判所の決定のうち重要な事項を含むと認められるものに向け, 原高等裁判所の許可を得て, 最高裁判所に特別に抗告を許す制度を創設した。 参考判例①も許可抗告事件である。 すなわち, 補充送達が有効であるから再審事由はないとした第1審の再審請求棄却決定に即時抗告がなされ, その抗告を棄却した原審決定に許可抗告がなされた事件である。以下では, 本問のよう場合に再審事由を満たしているかどうかを検討するため, まず送達が有効かどうかから確認していこう。2 訴状や判決の送達—補充送達民事訴訟法では上記のような訴訟書類は裁判所の責任で送達する職権送達主義を採る (98条1項)。 送達はまず送達場所を証明期間などをほぼ無効で直接の送付 (直送) をする (令和4年民事訴訟法改正により、 まずは送付を試みることが原則—問題32・図)。 送達事務は書記官が扱い, 通常の実施は郵便配達人が, 原則は送達すべき書類を送達を受けるべき本人に住所や事務所などで直接交付する (交付送達, 101条)。 住所などで本人に会えないときには, 家族や従業員などで「書類の受領について相当のわきまえのあるもの」に交付することもできるし (補充送達, 106条1項), これらの者が正当の理由なく受取を拒否する場合には送達すべき場所に書類を置いてくることも許される (差置送達, 同条3項)。 補充送達も差置送達もできない場合に許される方法として前述の付郵便送達 (107条 [→問題32]) のほか, 公示送達 (110条~113条) [→問題62] もある。 本問では, A宛の訴状等をAに交付するのかX宛の分をXの代表者妻に補充送達されたのであるが, 補充送達による102条1項や用される (民事訴訟法による102条1項)。 その同居人Aに交付するのが補充送達となる。 問題となるのは後者である。補充送達という 「相当のわきまえ」 (106条1項) とは, 送達の趣旨を理解して交付を受けた書類を受送達者に交付することを期待することができる程度の能力のことである。 具体的には従来10歳以上の者につきこれを肯定する裁判例があり, 参考判例①では9か月の児童につき否定した (訴状送達が無効とされた)。また, 受領資格者である同居者等 (本問のA) は書類受領限での受送達者 (本問のX) の法定代理人とみなされ, 訴訟関係の書類を受け取る権限があり, 訴訟追認の相手方当事者である場合には, 又は代理権 (民108条) の趣旨から補充送達は無効である。 ただし, このような法律上の利害対立はなく, 本問のように送達書類の訴訟について同居者が受送達者Xとの間に事実上の利害関係の対立がある場合, 補充送達は無効か。 この問題につき下級審判決で有効・無効の分かれた判断があるようだが, 受送達者であるべき者にとって有利・不利で判断する。 補充送達制度の趣旨は送達を確実・迅速に行い, 訴訟手続の安定を図るとする。 制度の趣旨は送達を受けるべき者に送達書類を確実に届けることによって, 当事者間の利益調整を図り, 手続の安定を確保するところにある。 したがって, 受送達者と同居者等との間に実質上利害対立があるため, 同居者等が送達書類を受送達者に届けず, 受送達者が応訴の機会を失うおそれがあるような場合には, 補充送達は許されないと解される。 このような立場の判決は, 無効である。 その判断については, 当事者間の実質的な利害対立関係の有無が補充送達の効力を決めることになる。 参考判例②は, 当事者間の対立が激しく夫名義のクレジットカードで買物した立替金の返還請求を, 信販会社が提起し, その訴状を妻が受け取ったというケース (受送達者である夫と妻の間に事実上の利害関係の対立あり) で, 判決送達について補充送達は無効との判断をした。 さらに本問の参考判例①が補充送達を無効とすることを明確にした。なるほど送達実施機関が同居人等につき事実上の利害関係の対立を判断しなければならず, 補充送達は困難になるから, 判断のように事実上の利害関係にかかわらず送達を有効とすることもやむを得ない。 ただし, 実務の工夫として, 訴え提起時に受送達者の同居人に等に事実上の利害関係の対立があることが書記官にわかったときは郵便配達人に補充送達を本人に交付するよう要請すべきではないか, といった提案はある。 さらに, 送達事務として適法でも、 原告と被告の間では送達を無効とすべき場合があるのではないか, という問題も提起されている。3 再審事由では, 上記のとおり本問で送達が有効である以上, Xは再審を提起できないのだろうか。従来, 訴訟手続に瑕疵があって訴訟関係書類が当事者に届かず, 訴訟に関与する機会がないまま敗訴した場合, 「法定代理権, 訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと」 (338条1項3号) に当たると考えられてきた。 再審事由は, 従来, 判例学説でそれをきたが, このように一定の限度で送達理解や制度理解を認めるのが現代の判例・通説である。 この3号再審事由は, 代理人がいる場合を前提とするが, 代理人がいない場合にも, さらに当事者から手続に関与する機会が実質的に奪われてきた場合も代理権の欠缺と同様として, 類推されるようになっている。 参考判例②も, 上記のように受送達者の幼い子に交付された訴状の送達が無効であり, 有効な訴状送達がないために被告が手続に関与する機会を与えられなかったのであるので, 当事者の代理人として訴訟行為をした者が代理権を欠いた場合と同じであるとして, 再審を認めた。しかし訴状送達も有効な本問の場合はどうなるだろうか。 参考判例②は, 訴状は適法だが, 判決は事実上の利害対立がある妻が受け取ったケースだったので, 訴状送達の無効から3号再審事由を適用した。 そこでそのケースを認める前提として, 判決は確定しなければならないからである。 利害関係の対立がある妻に交付した判決送達は有効と判断した。 そうだとすると, 訴状の補充送達が事実上の利害対立のある同居者になされ, 訴状送達が有効である場合も3号再審事由を認めることができるかが問題とされていたところ, 参考判例①は送達の効力と切り離して, 民事訴訟法338条1項3号の再審事由を認めた。 すなわち, 受送達者と同居者にその訴訟につき事実上の利害関係の対立があるために同居者が受送達者に訴状を速やかに交付することが期待できず, 現実に交付されなかったときには, 受送達者が訴訟手続に関与する機会を与えられなかったことになる, と。以上から, 本問でもXは民事訴訟法338条1項3号の再審事由を主張して, 再審を提起することができよう。 この場合に前述①の再審期間の制限はないから (342条3項), 本問のように判決確定後2年での再審提起はもちろん, 5年以上経過していてもよい。4 残された課題参考判例①のとおり, 3号再審事由が送達の有効性と直結せず, 当事者に保障さるべき手続関与の機会が与えられていたかどうかにより判断されるとすると, 今後これをどの程度拡張して判断するのかが問題とされている。補充送達では, 同居者等が感情的な対立から, あるいは単に失念して受送達者に訴状が交付されず, そのまま判決されて確定した場合にどう評価すべきか。 原告にも裁判所にも責任がなく, 被告が訴訟関係書類について知る機会がないと類型化できるような場合でない。 このような偶然の事情は3号再審事由に当たらないと考えられている。 別居して妻に訴訟関係書類が交付され夫が再審請求したケースで, 訴状送達に関する利害対立が認められないとして送達は有効, 再審請求は認められないとした裁判例もある (東京高判平21・3・31判タ1298号309頁)。 夫は妻子の心理的負担をも主張したが, 本問のように訴訟追認について夫を補助した妻に送達関係書類を(したというような利害対立の要求されている。また判例は公示送達の運用についても3号再審事由を認めていない (→問題22)。 公示送達制度自体, 送達名宛人の送達ができない場合の措置であるから現実に送達されないことの織り込み済みである。 また, この場合には上訴 (控訴) の追完による救済が認められてきたこともある。 再審が認められない原因となっている。 これによれば, 当事者が自分の責めに帰し得ない事由により不変期間を遵守できなかった場合に, 判決確定後でも訴訟を知ってから1週間以内に控訴ができる (97条1項)。 そして上訴の追完が認められる場合, 再審することはできない。 再審は上訴に対して補充的地役権に置かれているから, 再審事由をすでに先の上訴手続で主張していたか, その存在を知りながら上訴しなかった, 上訴審で主張しなかった場合には, 再審は認められない (再審の補充性, 338条1項ただし書)。 これに関しては, 1週間という期間制限なく, 元の第1審裁判所に提起し得る再審を認めるべきとの反対説がある。 実は, 参考判例②でも, 判決送達が有効と解すると, そこで受送達者も再審事由を主張したと解釈され, 再審の補充性から上訴の追完しか認められないとの疑問もあった。 現に再審を許さなかった, 参考判例②は再審事由を現実に知できなかった場合には民事訴訟法338条1項ただし書は適用されないとしたのである。なお, 2の最後の段落の通り, 送達事務として適法でも, 原告が被告の住所を知りながらまたは必要な調査を欠いたまま実施された公示送達のように, 原告被告関係で訴訟係属の要件としての送達は違法・無効として, 3号再審事由を認めようとする学説もある (公示送達を無効とし3号再審事由を肯定した判例として札幌地決令和元・5・14判タ1461号237頁)。●参考文献◎山本弘 『民事訴訟法・倒産法の研究』 (有斐閣・2019) 339頁/高田賢治・百選82頁/和田吉弘・百選230頁(安西明子)
物の所有権をめぐって、XはYに対し自己の所有権確認と引渡しを求める訴えを提起したところ、Yが独立当事者参加を申し立て、同一物に関してXに対してはその所有権確認、Yに対しては自己の所有権確認と引渡しを求めた。その所有権をめぐりZの請求をいずれも認容し、Xの請求を棄却した第1審判決に対し、Xのみが控訴したところ、控訴審ではZではなくYが所有権を有すると判断する場合、どのような判決をすべきか。また、上記第1審判決に対し、Yではなく、Yのみが控訴したときに、控訴審がZではなくXに所有権があると認めるもととなった場合はどのような判決をすべきか。参考判例最判昭48・7・20民集27巻7号863頁最判昭50・3・13民集29巻3号233頁解説1 確定遮断・移審の範囲本問では独立当事者参加(47条)が当事者双方に対してなされており、X→Y、Z→X、Z→Yの三方向の立てられた請求につき判決がなされている。三者のうちいずれかが勝訴すれば他の二者は敗訴することになる。本問では第1審でZが勝訴し、XとYが敗訴している。敗訴者が控訴すれば控訴審でも三面構成が維持され合一確定的な要請が満たされるが、敗訴者のうちの1人が控訴した場合、どのような範囲が控訴審に移り、審判の対象となるか。本問では、まずXのみが控訴し、Y自身は控訴も附帯控訴もしていない場合を考えてみる。現在のように参加人が一方当事者だけに請求を立てる片面的参加が認められていなかった旧法下では、独立当事者参加訴訟の構造を三面訴訟と捉える立場(最大判昭43・9・27民集21巻7号1928頁)・通説であった。そして判例は、参加人が第1審原告のみを相手方として控訴し、控訴審が1審被告を関与させずに判決した事案につき、参加人のした控訴は第1審被告に対しても効力を生じ、訴訟は三者につき全体として確定を遮断され、上告審に移審して審判対象となっているものと解すべきで、訴訟当事者の一郎のみに関する判決をすることは許されないとしていた(最判昭43・4・27民集22巻4号877頁)。これら2判例を引用して、参考判例①は、単純化すれば債権が二重譲渡され、譲受人と主張する原告を被告として、訴訟を訴訟告知もうけた譲受人が独立当事者参加をして、訴訟請求のほか、原告のうち1人の上訴によっても全請求が確定を遮断され移審の効果が生じるとした。したがって本問ではXの上訴により、X→Y請求とZ→Y請求、Z→X請求のほか、Z→Y請求も移審していることになる。上訴しなかった敗訴当事者に関する判決部分も上訴審に移審し、その者も上訴審の当事者になるとして、では、その者は上訴人になるのか被上訴人になるのか、この問題はかつて、上訴審の審判対象と不即不離の問題として議論されてきた。すなわち通常の控訴審によれば、非上訴者が上訴人と見なされればその敗訴部分も上訴審の審判対象となるが、被上訴人と見なされればその者は不服申立てをしておらずその敗訴部分は控訴審の不服申立ての対象とならない。不服申立てをしていない者に原判決は認められないと考えるから、被上訴人として、本問でいえばYとZを共に敗訴する請求棄却対象となるが、被上訴人として扱うとすればYはZ請求は棄却判決になるのは形式的な議論であり、疑問がある。参考判例①は、原審が、控訴人Xとの間で控訴が進んで、被控訴人との関係では訴訟であるとしてYの控訴を擬制したのに対し、非上訴者の地位について明言はしなかった。しかし、その後、参考判例②は非上訴者は被上訴人の地位につくと述べ、その後に参考判例①を引用しつつ、第1審の上訴人として扱う必要はないことを説いた。つまり、非上訴者の地位の問題と上訴審の審判対象の問題とは切り離されたのであり、従来から有力説が主張してきたとおり、非上訴者が上訴人になるのか被上訴人になるのかは、現在の訴訟追行の意義をもたなくなっている。2 上訴審の審判対象と不服の範囲:不利益変更の禁止との関係次に、本問で各請求が控訴審に移審して審判対象となった結果、裁判所が第1審とは逆に、ZではなくYが所有権を有するときの証拠もとに至った場合、X→Y請求を認容(Z→Y請求を棄却)して第1審判決を維持するのか、Y→X請求を認容(Z→X請求を棄却)して第1審判決を変更するのかが問題となる。第1審判決で認容されているZ→Y請求を棄却すればZ→X請求を維持すべきかという問題は、第1審では敗訴したYが請求を提起していないにもかかわらず、Yに有利に変更することになり、不利益変更禁止の原則に反し(Zに不利益に)原則許されない(不利益変更の禁止)。判決変更申立ての原則に(Yに不利益)反するし、判決変更も問題となる)、ここで(不利益変更の禁止)を貫き通すと、Z→Y請求を認容した判決を維持するのでもよい。けれども、参考判例①は、控訴審での判断を前提に無意味な判決は無意味である。合一確定のため必要な限度で、原判決を変更できると述べた。本問のような場合にZ→Y請求を認容からZ→Y請求を棄却に変更した。同一物につき(所有でない限り)XもZも所有権をもち、Yも所有権をもち、Z→Y請求も認容できることになるので、Yに二重の給付を強めるわけではない。したがって、本問でも合一確定に必要な限度、上訴審の審理制約である。3 片面的参加現行民事訴訟法では、当事者の一方のみに請求を立てる片面的参加も認められる(47条1項)。本問でも、参加人ZがYに対してのみの請求を立て、Z→Y請求を認容する判決に対し参加人とYとの間では二面関係にすぎないから、X→Y請求は敗訴者Xの上訴により上訴審に移審するが、Z→Y請求は移審しないとも考えられる。しかし、必要的共同訴訟も同然と考え、結果的に原判決を不利に変更されるZの手続保障にも配慮する必要がある。というのも、ZとしてはXのみが上訴し第1審に勝訴しているので、もはや原判決でZ請求部分は変更されないと信頼し、XとZも1審勝訴ケースのケース(仮にXとYを逆に控訴審で争う必要がない。けれども、本問のようにZが請求棄却判決を得ていた場合には、X(Yに)と相手どっていた場合にも、Zとしては自身の得た認容判決が覆されないよう、に主張立証の必要が生じることになる。したがって、そのことをZに釈明する。などして十分議論させておかなければならない。この点は、参考判例①について、すでに議論したようにZ→X請求が認め、Xのみの控訴でZ→X請求について判断した訴えが入っていると全面的参加の場合でもそうなので、Z→X請求がない片面的参加の場合にはZは相手方になっている認識をもちにくいと考えられるので、より一層の手続保障の必要があるだろう。なお、この問題に関連して、最判平22・3・16を見ておきたい。この判例は、本来は固有的必要的訴訟であるから上訴審の当事者となるべきであった非上訴者を、控訴審の当事者として認めなかったという異例の状況で、その誤りを最高裁が正すために採った措置であった。本件の共同訴訟人Y・Zの2人が第1審から一貫して共通の訴追代理人を選任していれば直ちに上訴立証活動に焦点を当て、非上訴者も実質的に訴訟に関わっていたことを認定した。さらに、実際に最高裁が非上訴者(本問ではYとZ)も含めた三者に対し期日呼出状を送達した。以上のように、非上訴者にも日割り計算し費用を負担したことを評価している。参考文献井上治典『多数当事者訴訟の法理』(弘文堂・1981)368頁/瀬田=多数当事者訴訟と上訴[新版注釈民事訴訟法⑤](有斐閣・1998)294頁/山本克己=『民事訴訟法』1154頁/瀬田=百選210頁(安西明子)
XはYに対し、貸金債権の支払を求めて訴えを提起した。Yはこの訴訟で予備的に、Xに対する反対債権による相殺を主張した。第1審はXの貸金債権の存在は認めつつ、予備的相殺の抗弁を容れて、結論としてXの請求を棄却した。これに対しXは控訴したが、Yはしなかったとき、控訴審における審理の結果、第1審とは逆に、Xの貸金債権はそもそも存在しないと判断した場合、控訴審はどのような判決ができるか。参考判例最判昭61・9・4判時1215号47頁解説1 控訴審の審理構造控訴審の審理対象は、控訴の適否と第1審判決に対する当事者の不服申立ての当否である。控訴審では控訴が不適法でその不備を補正できないときを除き(290条参照)、必ず口頭弁論を開かなければならないが(87条1項)、控訴審の審理対象は不服の当否であるから口頭弁論もその限度で行われる(296条1項)。不服申立てを認めて第1審判決を取り消す場合には(315条・306条)、請求自体について判断することになる。控訴審は第1審の事実審として必要な範囲で独自に事実認定を行う。その資料は第1審に提出された資料に控訴審で新たに提出された資料を加えたものである(続審主義)。ただし、控訴審の裁判は第1審に参与していないので、第1審で提出された資料を控訴審判決の資料とするためには、裁判官が交替した場合と同様に直接主義の要請に基づき、第1審における弁論の結果を当事者が陳述しなければならない(296条2項、弁論の更新)。控訴裁判所は控訴または附帯控訴によってされた不服申立ての限度でのみ第1審判決の当否および変更をすることができる(304条)。上訴による確定遮断および移審の効力は、上訴人の不服申立ての範囲にかかわらず、上訴の対象となった判決全体について生ずるが、上訴人の不服のない部分についてまで裁判所は判断する権限はもたない。この結果、不服申立てのない部分について裁判は確定し(上訴不可分の原則)、この結果の範囲を拡張し、被上訴人が附帯控訴をしない限り一部のみが控訴審の対象とする。控訴人は、被控訴人の利益を害さなく、その一部のみを控訴審の対象とすることができる。例えば被告が500万円の請求を認容し、300万円の一部認容一部棄却判決を得た場合、原告は棄却部分の200万円の限度で控訴することができるが、100万円の限度にとどめることもできる。それを控訴審の口頭弁論終結時までに200万円まで拡張できるとする。これに対応して、被控訴人も審判の対象を自己に有利に拡大することを求めるため、その申立てでは500万円全額が移審しているところで、第1審で認容された300万円の部分について審判対象とするよう求めるのが、附帯控訴である(293条)[→問題73]。2 不利益変更の禁止控訴審の審理の範囲は、控訴によってきた不服申立ての限度に画されるので(304条)、控訴がない限り、控訴審は第1審判決を不利益に変更されることはなく、被控訴人の場合も控訴審の判決が下されるにとどまる。これを不利益変更禁止の原則という。例えば第1審で300万円の支払を命じられ、原告が200万円しか存在しないから心外だとし、被告が原告の請求権は200万円しか存在しないから心外だと判決し、控訴人が300万円の支払を求める訴えを認めて控訴を棄却して300万円の支払を命じるにとどまる。逆に原告が不服を申し立てた場合に控訴審が第1審の500万円認容判決よりもさらに原告に有利に800万円のうち100万円だけを不服として、控訴審が300万円の請求権はあると判断したとしても、100万円円を越えて200万円を認容に変えることはできない。控訴していない部分は不服申立ての対象ではないからである。不利益変更禁止の原則により控訴人の保護が図られるのに対し、被控訴人が自己に有利な(控訴人に不利益な)判決を得たいのであれば、審判の対象を拡張するために前述の附帯控訴をすればよい。不利益変更禁止の原則は、当事者の不服申立てがない限り、それに対応する裁判をすることさえできないということであり、一応は処分権主義(246条)に基づくものとされてきた(これに対し、控訴制度の趣旨に基づくとする説もあり、処分権主義で説明できない場合に不利益変更禁止の原則独自の窮屈を認めるのは、宇野・不利益変更禁止原則の機能と限界(2・完)民商法雑誌103巻4号(1991)601頁)。したがって判例通説によれば、処分権主義と関連させれば、不利益変更禁止の原則は適用されない(最判昭38・10・15民集17巻9号1220頁)。また、職権調査事項についても、例えば一部認容判決に対する原告の控訴において、第1審が判断した請求について不存在と判断し、請求棄却とするのは不利益変更ではない。訴え却下の判決が下される。とされ、訴訟費用の妥当性から、一部認容部分も取り消して、控訴人に不利益訴え却下判決ができるというのである。3 予備的相殺の抗弁控訴審の裁判が申立てに拘束され、控訴人に不利益に変更できないというのは、判決の主文を基準としている。判決理由には既判力が生じない限り、不利益変更禁止は問題ない。そこで、例えば請求を理由とした請求棄却判決を、消滅時効を理由として控訴審がすることは差し支えないとされる。他方、本問の、判決理由中に既判力が生じる相殺(114条2項)について、不利益変更が問題となる。予備的相殺が認められて請求棄却判決を得た被告も原告の利益もそこから[→問題72]、本問はこれに被告が控訴する。この控訴が認められれば控訴審で原告の請求権があると判断されるのであれば、原判決取消、請求棄却となる。控訴審が訴求債権は認めつつ、第1審と異なり反対債権なしと判断した場合、もし請求棄却にすれば、これは不利益変更になるので、控訴審にとどめなければならない。次に、本問の通り、予備的相殺で請求棄却となった原告の控訴が申し立てられ、請求認容と判断された場合に、これと理由とする棄却判決は第1審の判決の認容と判断を認めたことの違い、反対債権の不存在に判決を下したという点で被告への不利益となる。そこで学説としては、その判断内容で、被告への不利益とはならず、請求棄却として控訴棄却を維持するにとどめなければならず、被控訴人が附帯控訴を提起して、請求認容判決を得て、あらためてその請求権なしという理由での棄却判決をするためには、Yの控訴または附帯控訴が必要となる。以上の通り判示するのが、参考判例である。この事案は、XがYに貸金をしたところ、Yは「賭博債務である」ことを知ってXの貸金請求を棄却した(民708条)。仮にそうでないとしても反対債権で相殺すると主張し、第1審は予備的相殺を認めて請求棄却とした。Xが控訴したのに対し、控訴審は、賭博につき反対債権として相殺として原判決を取り消し、請求を認容した。Yが控訴したところ、最高裁は本件貸金債権は民法90条により無効であると判断した。このような場合、最高裁は原判決を破棄するが、すると控訴申立てに対する応答がない状態になるので、原々裁判所に差し戻し(325条)、自ら判決をする(326条)[→問題76]。そしてこの事案では本案は相殺について判断するまでもなく請求棄却であるので、Yがしていない(上告したのはYだが原審被告としては不利益にはならない)ので、控訴審としては、Xに認容してはならず請求を棄却し、Yの控訴を棄却した。4 審判範囲の限定しかし、このように原告のみが控訴した場合、被告が附帯控訴もしない場合は、控訴審は請求権を棄却する部分の当否を審判するのか。控訴審は控訴の対象として、控訴部分である反対債権に絞られ、請求権の存否は審判対象とならず、控訴審は反対債権の存否しか審判判断できないという考え方もある。この説によれば、控訴裁判所は、訴求債権が存在しないと判断するときも、反対債権が存在しないと判断するときは、原判決を取り消し、請求を認容することになる。そもそも請求債権について審理判断すること、自体、許されない。不服を申し立てた原告が反対債権を審判対象としていること、被告が附帯控訴での機会を利用せず、請求債権について審判対象としなかったことを重くみており、当事者の申立てによる審判の範囲を厳格に捉える立場といえよう。この少数説に対しては、控訴審の判断内容に反する処理の落ち着きの悪さが問題とされているほか、次のような批判がある。すなわち、不利益変更を処分権主義から導く立場からは、被告が不服申立てをしなかったのは、判決主文において請求棄却された結論はよしとし、基準時における反対債権の不存在について生じる既判力を争わないという意思にとどまるから、請求を認容することは許されないのであって、控訴棄却にとどめるべき、と。なお、固有的必要的共同訴訟において不利益変更禁止の原則が問題となった判例(最判平22・3・16民集64巻2号698頁)については、同じく合一確定の要請が働く独立当事者参加のところで紹介している[→問題2、3]。参考文献山本=本問表題215頁/瀬崎=百選222頁(安西明子)
A→Y→Xへと移転登記がなされている土地につき、Xは、Aからこの土地を買い受けたのは自分であるとして訴訟を提起した。Xの主張によれば、Yは自分の代理人であるにもかかわらず、Y名義で移転登記したという。そこでXは、YからXへの移転登記、Yに対しては抹消登記を求めた。訴訟では土地の売買契約締結後のYの地位と所有権の帰属が争点となり、Yは代理人でなく、Xに帰属してY自身が土地を購入したと主張したところ、第1審では請求が棄却された。しかし控訴審では、Xの主張が認められ請求認容判決が出され、さらに上告審では破棄差戻しの判決が出た。その理由は、XがY名義で登記させたのはXの意思でY名義に所有権移転登記をさせたものであり、実質、XがYと共謀してY名義に仮装登記をした場合と同様、民法94条2項の趣旨に照らし、XはYが所有権を取得しなかったことを善意の第三者に対抗できない、原判決がYがこの善意の第三者に当たるかどうかを審理判断しなかったのは審理不尽、理由不備に当たる、というものであった。差戻しを受けた控訴審では、Yは代理人でなく、X本人のためにすると示していなかったので所有権を取得したのはYである。そしてYは登記をXに移転する義務とYに移転する義務を負う二重譲渡になるので、XとYとは対抗関係に立つとの理由で、請求を棄却した。このように差戻審が、破棄理由とされた移転登記手続行為につきYが民法94条2項の趣旨の第三者に当たるかどうかを審理することなく、まったく別の民法100条・177条を適用した判決をすることは許されるか。参考判例最判昭43・3・19民集22巻3号648頁解説1 上告審の審判本問は、三段論法も上告審による参考判例①を簡略化したものである。破棄理由とされた判断につき差戻審が審理判断しないまま、他の理由で判決を下してよいか、上告審の破棄理由の判断の拘束力を掲げている。まず、その前提を整理しておこう。裁判所は、上告審、上告理由書などの書面に基づき、訴訟記録がないときは、決定で上告を却下できる(316条・317条1項)。上告裁判所が原裁判所であるときは、受理された上告の理由が明らかに法令違反、絶対的上告理由に該当しないと認められる場合、上告棄却の決定ができる(同条2項、本問でも上告審が最高裁であれば上告理由(312条1項・2項)が、上告受理申立ての理由(318条)、あるいは職権破棄の理由(325条1項)が認められたことを前提とする)。このような決定をしないときは、被上告人に答弁書を提出させ、原判決の当否につき書面審理を行う。審理の結果、上告に理由がないときは、口頭弁論を経ることなく判決で上告を棄却できる(319条)。これに対し、上告を却下また棄却できないときは、原則に戻り、上告裁判所は口頭弁論を開かなければならない(87条1項・3項)。上告審の審判対象は上告(通常上告)された判決の申立ての範囲に限定され(320条)、審理判決もその限度で行われる(313条による296条1項の準用)。上告理由は法律問題に限られ、事実問題については職権調査事項(322条)のほかは審理判断しない。法律問題の前提となる事実認定は、原審が認定した事実を用いる。原判決において適法に確定された事実は上告裁判所を拘束する(321条1項)。口頭弁論による審理の結果、上告理由があっても原判決に影響があるとも限らない(322条1項)。上告理由があっても他の理由で原判決が正当であるとすることもある(323条による302条準用)。逆に、上告理由が認められるにもかかわらず、何らかの法令違反が認められれば、原判決を破棄しなければならない(325条1項・2項)。この場合、裁判は控訴申立てに対する応答がなくなるので、上告裁判所は、原審に差し戻すか自ら裁判をする必要がある。後者は、法令違反を理由に原判決を破棄しても、原判決の確定した事実に基づいて裁判ができるときに、上告審が自ら事件について裁判をすることである(326条)。2 破棄差戻しの手続法律審である上告審は事実認定を自らするわけではないので、控訴審とは逆に、上告審では差戻しが原則である(325条1項)。破棄差戻しを受けた裁判所は、その審理の手続に従い、新たに口頭弁論を開いて審理する(325条3項後段)。実質的には口頭弁論の再開続行となるが、原判決に関与した裁判官は反省に戻ることができず(同条4項)、裁判官は全員交替し(裁判所24条1項)、最高裁は原裁判所と同等の他の裁判所に移送、同条1項・2項)、弁論を更新する(313条、297条、329条による249条2項準用)。従前の手続の主張と証拠は破棄差戻しの後でも効力を有するし、当事者は新たな攻撃防御方法を提出できる[→問題73]。差戻しまたは移送を受けた裁判所は、裁判をするに当たり上告審が破棄理由とした事実上、法律上の判断に拘束される(325条3項後段、裁4条)。もしこの拘束力を認めないと、控訴審と上告審の法律判断が循環する場合、例えば控訴審が差戻しをいつまでも拘束しようとすると、再度上告されて事件が何度も往復して訴訟遅延する可能性もある。このように、破棄判決の拘束力は事実認定制度の趣旨、その合理的な維持のためにあるとみるのが通説であり、既判力とは別の特殊な拘束力と位置付ける有力である。3 拘束力の範囲破棄差戻判決のどのような判断が差戻審を拘束するのか。まず差戻判決では事実上の判断といっても、上告審もできる職権調査に関する事実判断を指す。事実上の判断については、差戻審が新たな資料に基づいて新たな事実の認定。そこで本来の拘束力は法律上の判断に生じる。ただし、上告裁判所も自由に判断できる法律上の判断と、その前提となる事実の確定がセットで初めて拘束力を認められる。その判断の射程は、破棄理由として明示された否定判断(破棄理由として明示された否定判断は、例えば「ある事実があると単純に解釈すべきでない」)と、その判断の論理的必然な前提たる判断に拘り拘束力が生じる。例えば訴訟要件の欠缺を理由に訴えを却下した原判決を破棄したときは、後者の訴訟要件の存在についての判断にも拘束力が生じる。差戻審は訴訟要件なしとの判断をすることはできない。差戻判決は、審理不尽、理由不備、判断不行使を破棄理由とするときは、これらは原判決が判断していないことが破棄の直接の理由であるから、一定の方向の判断を示唆するもので、4 本問について本問では、Zが居宅が理由とされた民法94条2項の適用については判断しなかったのは、破棄判決の拘束力に反するかどうかが問題とされている。まず、参考判例①の事実(破棄判決)は、原審(3次控訴審)は差戻し(2次上告審)を受けた2次控訴審(上告審)上告審は民法94条2項の判断の判断を判決を下した破棄差戻しを受けた裁判所を拘束する効力は、上記の理由で否定した範囲で及ぶ。すなわち、同一の事実関係を前提とする限り、Yが善意であるか否かを判断しなければならないということで、差戻控訴審を拘束する。これに差戻控訴審は、民法100条・177条という別の見解が成り立つのであればそれを適用してもよいとしたのである。元々、Yの控訴審(および訴訟記録)では、YとXとの間の法律関係も審理対象となっていた。参考判例①でも「YはXの代理人でありXが所有権を取得した」との認定に対し、3次控訴審では「Yは代理人であるがXのためにするとの顕名要件を充たしていなかったので所有権はYが取得した」と認定しているものを重視すれば、拘束力は問題とならない。しかし、基本の事実関係について「XがYに土地の買い受けを委任したが、Yが自己の名で契約、登記し、YはXでなくYに登記を移した」という限度で事実認定は同一とみて、事実認定でなく法的評価が異なると考えることもできる。ただし、そうだとすれば、審理不尽、理由不備で破棄されたのであるから、上記通説(例外の2つ目)によれば一定の判断をせよとの拘束力があるはずで、民法94条2項の類推適用をしなければならなかったとして、参考判例①を批判する立場もある。参考文献重点講義民訴751頁/安達=百選228頁(安西明子)